〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/26 (金) 

須 磨 (十六)
その頃、太宰だざい大弐だいに が任期を終えて都へ上って来ました。たいそうな勢いで一族が多く、娘たちもたくさんいて、旅路が厄介なため。北の方の一行は船で上ります。浦づたいに遊覧しながら参りますと、須磨はほかの海辺より景色のいい所なので、心が惹かれる上、源氏の君が、流罪の様子でこちらにいらっしゃると聞きますと、とてもお目にかかれるわけでもないのに、浮いた気分の若い娘たちは、船に中にいてさえそわそわして心をときめかしております。まして、その中の五節ごせちきみ は、このまま通り過ぎてしまうのも名残惜しく思われるところへ、きん の音が風に乗ってはるかな岸辺からほのかに聞こえて来ます。
この浦の風景といい、源氏の君のおいたわしいお身の上といい、琴の音のもの淋しさといい、あらゆることが一つになって、心ある者はみな泣いてしまいました。

大弐からお便りを差し上げます。
「はるばる遠いところから上京いたしまして。真っ先にお伺いして、都のお話も承りたく存じおりましたのに、思いのほかに、このような浦にいらしゃいますとは、その御住居の前をす通りして行きますのは、もったいなくも悲しいことでございます知り合いたちや、親しい誰彼まで大勢出迎えに来ておりまして、その窮屈さに何かと面倒なこともあり、御遠慮申し上げる方がよいらしいので、お伺いいたしかねており、残念でございます。また改めて参上させていただきます」
などと御挨拶申し上げました。
息子の筑前ちくぜんかみ が父の使いとして参りました。源氏の君が蔵人くろうど にさせて、目をかけておやりになった者なので、たいそう悲しんで嘆いておりますけれど、ほかの一目も多い手前、外聞を憚って、少しの間もとどまれないのでした。
「都を離れてから後は、昔親しかった人々とも、なかなか逢うことがかなわなくなってしまったのに。こうしてわざわざ立ち寄ってくれたとは」
と、源氏の君はおっしゃいます。大弐へのお返事にも、そのむねをお書きになられました。
筑前の守は泣く泣く帰って、源氏の君nお住まいの御様子を父に話しますと、大弐をはじめ迎えの人々まで、縁起でないほどに、こぞって泣きに泣くのでした。

五節の君は、あれこれ無理算段して、とにかくお手紙をお届けいたしました。
琴の に ひきとめらるる 綱手縄つなでなは  たゆたふ心 君知るらめや
(君が弾く琴の音色のなつかしく 船ひく綱手の縄のように たゆとう心行きかねて 恋しさに泣くこの胸を 恋しい君の知るや知らずや)
「好き好きしいこのような不躾ぶしつけ なまねも、どうか <人なとが めそ> の歌のようにお咎めになりませんように」
と申し上げます。源氏の君はそのお手紙をほほ笑みながら御覧になります。その御様子の何という匂やかさ。
心ありて ひきての綱の たゆたはば うちすぎましや 須磨の浦波
(真実心があるのなら 引き手の綱のたゆたいに どうして寄らずにいられよう 今も恋しいというのがまことなら わたしのとどまる須磨の浦を)

「こんな田舎で海人あま 同然の暮しをしようとは、思いも寄らないことでしたよ」
とお返事にはありました。昔、左遷される菅原道真公がうまや の長官に詩を与えたという故事もありますが、五節の君は、まして、こんな胸を打つお返事をいただいて、このままこの地に、一人残ってしまいたいように切なく思うのでした。

都では月日が経つにつれて、帝をはじめ多くの人々が、源氏の君を恋い慕われる折節が多くなりました。とりわけ東宮は、いつも源氏の君をお思いだしになられては、そっとお泣きになっていらしゃいます。
それを拝する御乳母、ましてすべてを知っている王命婦の君は、東宮をこの上もなくお可哀そうに拝されるのでした。
藤壺の尼宮は、東宮のお身の上に不吉なことが起こりはしないかと、そればかり御心配していられたのに、源氏の君もこんなふうに流浪なされてしまったので、この上もなくお嘆きになっていらっしゃいます。源氏の君の御兄弟の親王たちや、親しくお付き合いしていらっしゃった公卿たちも、はじめの頃は、お見舞いのお便りをさし上げる方などもありましたが。手紙の中で心を打つしみじみした詩文を作り交わして、源氏の君のお作がまた世の中にもてはやされたりすることが多いため、弘徽殿こきでん の大后がその噂をお聞きになって、きびしく御非難なさるのでした。
「朝廷の勘気を蒙った者は、思いのままに日々の食物を味わうことさえ許されないはずです。それなのにあの人は風流な家に住まったり、世間をそしったりしているとは。それをまた、あの鹿を馬だと言って大臣の機嫌をとった人がよこしまなのと同じように、源氏の君に追従ついしょう する者さえいるのです」
こんないやな噂がいろいろと伝わって来ますので、かかわりあうと面倒だと思って、源氏の君に、お便りをさしあげる人もさっぱりなくなってしまいました。

源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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