庭先の花も色とりどりに咲き乱れ、風情のある美しい夕暮に、海の見渡せる廊下にお出ましになられて、佇
んでいらっしゃる源氏の君のお姿の、空恐ろしいまでのお美しさは、こうした所が所だけに、なおさらこの世のものともお見えになりません。白い綾のなよやかな下着に、紫苑色しおんいろ
の指貫さしぬき の袴はかま
などをお召しになって、濃い縹色はなだいろ
の御直衣のうし に、帯はゆるやかに、くつろいだお姿のまま、
「釈迦しゃか 牟尼仏むにぶつ
弟子でし 」 と名のられて、ゆるやかに経をお読みなられるお声がたとえよもなくありがたく聞こえます。 沖の方を多くの舟が、歌い騒ぎながら漕いで行くのも聞こえます。その沖にある舟が、ただ小さな鳥の浮かんでいるように遠目にはかすかに見えるのも、心細そうなのに、折から雁が列を作って啼な
く声が、舟の櫓ろ の音とまちがえそうなのを、つくづくお聞きになって、涙のこぼれるのを、指でそっとお払いになります。その御手つきの、黒檀こくたん
のお数珠じゅず に映えているのを拝しますと、古里ふるさと
の女を恋しがっている供人たちの心も、みな慰められるのでした。 |
初雁はつかり
は 恋しき人の つらなれや 旅の空飛ぶ 声の悲しき (秋の空飛ぶ初雁は 古里の恋しい女たちの 仲間なのだろうか 列をなして旅の空行く初雁の
その啼き声の何と悲しく) |
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と源氏の君がおっしゃいますと、良清よしきよ
は、 |
かきtyらね
昔のことぞ 思ほゆる 雁はその世の 友ならねども (空行く雁の声聞けば あれもこれもとつぎつぎに 昔のことがぢのばれる
恋しい故郷のあの人、あのこと その頃雁を友とも思わなかったのに) |
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民部みんぶ
の大輔たいふ 惟光これみつ
は、 |
心から
常世とこよ を捨てて 鳴く雁を 雲のよそにも
思ひけるかな (古里を遠く捨て さすらい鳴く雁の声 雁のつらさもあの頃は 雲の彼方のよそごとと 思いやるさえしなかった) |
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前さき
の右近うこん の将監ぞう
は、 |
常世とこよ
出い でて 旅のそらなる 雁がねも 列つら
におくれぬ ほどぞなぐさむ (古里をはるばる離れ 旅の空飛ぶ雁がねも 友の列に飛べば淋しさも 少しは心なぐさめられる) |
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「もし友にはぐれましたなら、雁はどんなに心細いことでございましょう」 と言います。 この男は、親が常陸ひたち
の介すけ になって赴任して行ったのに、自分はひとり源氏の君のお供を願って、須磨へ来たのでした。心の内ではいろいろ悩んでいるだろうに、表面は明るく屈託なさそうにして、さりげない様子に振る舞っています。 折から月が、ことさらはなやかにさし昇ってきたのを御覧になられて、源氏の君は今宵は十五夜だったかとお思い出しになります。 宮中での月の宴の管絃のお遊びがそぞろに恋しく思い出され、都ではさぞかし女君たちが、それぞれにこの月を眺めていらっしゃることだろうと、御想像なさいます。それにつけてもひたすら月の顔ばかりを見つめていらっしゃるのでした。 <二千里じせんり
の外ほか 故人こじん
の心こころ > と、白氏文集の一節をお口ずさみになりますと、人々は例によって涙をとめあれらません。 源氏の君は、藤壺の尼宮が
「霧や隔つる」 とお詠みになられた時のことが、言いようもなく恋しくて、藤壺の宮とのあの時この時のことをお思い出しになるとたまらなく、つい、よよと声をあげてお泣きになります。お供の人々は、 「夜もしまいました」 と申し上げますけれど、やはり御寝所にお入りになろうとなさいません。 |
見るほどぞ
しばしなぐさむ めぐりあはむ 月の都は 遥かなれども (月の顔さえ眺めていたら つかの間なりとなぐさめられる めぐり逢う日はいつのこと
あなたの住む京の都は 月の都よりなおはるか) |
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あの夜、帝がたいそうお打ちとけになられて、昔の思い出話などを遊ばした御様子が、亡き父院に実によく似ていらっしゃったことなども、恋しくお思い出しになられます。
<恩賜おんし の御衣ぎょい
は今いま 此ここ
に在り> の句を吟じながら奥にお入りになりました。その帝から頂いた御衣おんぞ
は、菅原道真すがわらのみちざね
公の詩の通り今もお身から離さず、おそばにお置きになっていらっしゃいます。 |
憂しとのみ
ひとへにものは 思ほえで ひだりみぎにも 濡るる袖かな (わたしにつれないお方だけれど なおなつかしい思い出の数々 お恨みしきれない悩ましさ
懐かしいにつけ恨めしいにつけ 涙に濡らす両の袖よ) |
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