須磨ではひとしお物思いをそそる秋風が吹きそめ、海は少し遠いのですけれど、行平の中納言が<関吹き越ゆる>
と詠んだ、須磨の浦波の音が、たしかに毎夜毎夜、いかにもその歌の通りにすぐま近に聞こえて来て、またとなくあわれなのは、こういう所の秋なのでした。 おそばにもすっかり人が少なくなり、誰もみな寝静まってしまいましたのに、源氏の君はひとりお目ざめになられ、
枕から頭を起して、四方に吹き荒れる風の音をお聞きになっていらっしゃいます。波がついこの枕元まで打ち寄せて来るような心地がして、涙がいつ落ちたとも覚えのないまま、もう枕も浮くばかりに涙に濡れているのでした。
琴 を少し掻き鳴らしてごらんになると、われながらいかにも、もの寂しく聞こえますので、弾きやめられて、
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恋ひわびて
泣く音ね にまがふ 浦波は 思ふかたより
風や吹くらむ (ふるさとの都恋しさに たまりかねわたしが泣けば その泣き声に似た浦波よ あれはわたしを思う人のいる 都の方から風が吹いてくるせいか) |
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とお詠いになります声に、人々が目を覚まして、何とお見事なと感じ入るにつけても、悲しさをこらえきれなくなります。ただ何とはなしに一人、また一人と起き出しては、そっと鼻をかんでいます。 「ほんとうにこの者たちは、どんな思いでいることだろう。わたし一人のために、親、兄弟など、片時も離れにくい人々や、それぞれの身分に応じて大切に思っていたにちがいない家を捨てて、こうしてこんなところにまでわたしと一緒に流浪してくれている」 と、お考えになりますと、たいそう不憫でたまらなく、頼りにしている自分がこんなふうに思い沈んでいては、なおさら心細がることだろうと、お思いになられましたので、昼間は何かと冗談をおっしゃっては淋しさをまぎらわせ、退屈しのぎに、様々な色の紙を継ぎ合わせて、和歌を書きすさんだりなさいます。また織り方の珍しい生地の唐から
の綾あや などに、さまざまな絵などをお慰みにお描きになり、それを貼りまぜた屏風びょうぶ
の表などは、たいそう結構で、見所のあるものでした。 昔は人々がお話申し上げた海や山の景色を、はるかに想像なさったものでしたが、今はそれらを目の当たりに御覧になって、なるほど話しに聞いただけでは思いも及ばなかったすばらしい海辺の風景を、またとないほどお見事に、たくさんお描きためになります。 それを見て人々は、 「当代の名人だという千枝ちえだ
や常則つねのり などを呼んで、彩色をさせたいものだ」 などと、口々にもどかしがっております。源氏の君のお優しく御立派な御様子に、世の中の愁いも憂さも忘れて、お側近くにお仕えするのを嬉しく思い、いつも四、五人くらいの者がお前に控えております。 |