〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/19 (金) 

須 磨 (七)
明日はいよいよ出立という日の暮に、桐壺院の御陵みささぎ に参拝なさろうとして、北山へお出かけになりました。暁にかけて月の出るころなので、まず藤壺の尼宮の所へお伺いになります。尼宮はおそばに近い御簾みす の前に、源氏の君の御座所ござしょ を御用意して、取り次ぎなしに御自身がお話になります。
東宮の御事が、この上なく気がかりだと言われるのでした。お互いに深いお心を秘めたおふたりのお話は、さぞかし感慨無量のことがいろいろと多かったことでしょう。
藤壺の尼宮のおん 気配が、御落飾以前のままに、おやさしくお美しく感じられるにつけて、源氏の君はつれ なかったこれまでの宮の御態度の恨めしさも、それとなく訴えたい気もなさいましたけれど、そんなことを申し上げたら、尼宮は、今更うとましくお思いになるだろうし、御自分としても、口にしたらかえって、心がより以上乱れるに違いないと、思い返して、ただ、
「このように思いもかけない罪に問われるつけましても、胸に思い当たるただ一つの、あのことだけが、空恐ろしくなります。惜しくもなくこの命を投げ出してまでも、せめて東宮の御代みよ のいやさか さえ御安泰であられますなら」
とだけ申し上げたのも、ごもっともなことでした。
藤壺の尼宮も、すべて思い当たられることなので、お心が波立つばかりで、お返事もお出来になりません。あれもこれも一挙に思い出されて、源氏の君の、お泣きになるお姿が、いい様もなく優艶で美しいのです。
「これからお山の御陵みささぎ に参詣いたしますが、お言伝ことづて は」
ともうしあげますと、尼君は、しばらくものも仰せになれず、切ないお心をじっと押させていらっしゃる御様子です。

見しはなく あるは悲しき 世のはてを そむきしかひも なくなくぞふる
(添いし人今はなくて 残りし人は悲運に沈む 悲しいこの世を逃れいで 出離した甲斐もさらになく 涙のつきぬこの日ごろ)

お二人とも、たとえようもない悲しみに、お心が乱れていらっしゃるので、お胸に積もりあふれる想いを到底言葉にはおつづけになれないのでした
別れしに 悲しきことは 尽きにしを またぞこの世の 憂さはまされる
(故院と死別の悲しさを これこそ限りと思ったに 今またこの世の憂さ辛さ 生きてこの身に襲いきて いや増す嘆き尽きもせず)
有明の光を待って御陵にお出かけになります。
お供はただ五、六人ほどで、下人しもびと も、ごく親しい者だけをお連れになって、お馬でお出ましになります。
今更言うまでもないことですが、昔の全盛の頃の御外出の華やかさと打って変わった淋しさです。家来たちはみな、それをたいそう悲しく思うのでした。
あの賀茂の御禊みそぎ の日、臨時の御随身みずいじん になりお仕えした右近うこん将監ぞう蔵人くろうど が、源氏の君の側近と見られ、当然の位の昇進にも外れてしまい、とうとう殿上でんじょう御簡みふだ からも名を除かれて、官職まで召し上げられ、世間に面目もないので、須磨にお供していく人数の中に入っています。
下鴨しもがも 神社が見渡せる所を通りかかった時、ふと御禊みそぎ の日が思い出されて、この男は馬から降りて源氏の君の御乗馬の口を取り、

引き連れて あふひ かざしし そのかみを 思へばつらし 賀茂の端垣みづがき
(あの晴れやかな御禊の日 美々しい行列に葵かざして ねり歩いた昔の華やかな夢よ 今は思い出すさえ恨めしい この賀茂の端垣みづがき までも)

と申しますので、源氏の君は、
「ほんとに、この男は、どんな思いでいることか、あの時は誰よりも華やかにしていたにに」
と、お思いになるにつけても、不憫でなりません。
源氏の君も馬からお降りになられて、はるかに下鴨神社方を拝まれて、神にお暇乞いとまご いを申し上げます。

憂き世をば 今ぞ別るる とどまらむ 名をばただすの 神にまかせて
(住み憂き都をはるばると 落ちていく身のその後に とどまる汚名はひたすらに その名も糺すのわが神よ 祈りまかせてまいります)

とおっしゃる御様子を、右近の将監は感激し易い若者ですから、しみじみと身にしみて何という御立派さとお見上げするのでした。
故桐壺院の山陵に御参詣なさって、故院の御在世のお姿を、まるで目に前に見るようにありありとお思い出しになります。
至高の御位の帝王の御身でも、おかくれになってしまわれては、言いようもなく残念なことなのでした。御陵の前で、あれこれも泣く泣く申し上げたところで、それに対して故院の御返事を、もうこの世ではお伺いすることが出来ないのです。あれほどいろいろお心遣いを遊ばした御遺言の数々は、どこへどう消え失せてしまったものかと、今更言っても詮ないことでした。
御陵は、道の草が生い茂って、踏み分けて入っていらっしゃるのにも、露さえもしとどに、涙もいっそうあふれてくるのでした。月も雲に隠されて、森の木立も鬱蒼と茂っていて、ものさびしく見えます。帰る道もわからないほど悲しみにかきくれて、御陵を拝んでいらっしゃいますと、ありし日の故院のお姿がありありと目に前にお ちになりました。源氏の君は思わず鳥肌の立つようにお感じになります。

亡きかげや いかが見るらむ よそへつつ ながむる月も 雲かくれぬる
(父帝の御魂は何とお思いであろうか わが身の上の浅ましさを 亡き面影になぞらえて 仰ぐ月さえむら雲に かくれて見えぬ悲しさよ)
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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