〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/19 (金) 

須 磨 (六)
源氏の君は二条の院で、すべての身辺整理をなさいます。親しくお仕えして時勢の波にもなび かぬ、忠実な家臣たちだけに、後々あとあと のお邸の事務一切を処理させるため、上下かみしも の役目をお決めになってpかれます。
須磨にお供申し上げる者は、それとは別にお選びになりました。あの須磨の山里で誤使用になる調度類は、ぜひ必要な品々だけを、それも飾り気のない簡素なものになさり、またしかるべき書籍、白氏文集はくしもんじゅう などを入れた箱、そのほかにきん をひとつだけお持ちになります。たくさんの御調度やはなやかな御衣裳などは一切お持ちにならないで、いや しい山里の人のようになさいます。源氏の君にお仕えしている女房たちをはじめ、すべてのことはみな、西のたい の紫の上に管理をおまか せになりました。
源氏の君の御領地の荘園や牧場をはじめ、その他所有権のある所々ところどころ の領地の地券などもすべて、紫の上にお譲り渡しになられます。そのほかの倉の建ち並んだ御倉所みくらどころ や、金銀、絹綾きぬあや を貯えている納殿おさめどの のことまで、前からしっかり者だと信用していらっしゃる少納言しょうなごん乳母めのと にまかせ、腹心の家司けいし たちを相談相手につけて、財産の管理上の事務一切をとらせるようお計らいになりました。
これまで東の対で源氏の君の女房としてお仕えしていた中務なかつかさ や中将などという、お情けを受けていた女房たちは、いつも薄情なお扱いを受けて恨めしく思いながらも、お側でお目にかかれた間は、心も慰められていたけれど、これからはどんなふうにして暮らしていったらいいのかと、心細く思うのでしたが、源氏の君は、
「命があって、また都へ帰る日もあるだろう。それを信じて待とうと思う人は、西の対に来て、姫君にお仕えしているがいい」
とおっしゃって、上から下まですべての女房たちを、西の対へおやりになりました。
もとの左大臣家にお仕えしている若君の乳母たちへも、また花散里の君へも、趣のある贈り物はもとより、日用に使う品々まで行き届いた気配りをしておやりになるのでした。
あの朧月夜おぼろづきよ尚侍ないしのかみ の所にも、無理な手だてをしてお別れのお手紙をお届けになりました。
「あなたから何のお見舞いのお言葉もいただけないのも、無理もないことと存じますものの、今はこれまでと、この世をあきらめて都を離れる苦しさも恨めしさも、この上なく辛いものと思われます
逢う瀬なき なみだの川に 沈みしや 流るるみをの はじめなりけむ
(逢うことも許されぬ悲しさに 流しつづけた涙川 その川に溺れたはじめが 辛いさすらいの旅の はじめであったのか)
と思い出され、あなたを思いきれないことだけが、わたしの罪として逃れようもないのです」
文使いの運ぶ途中も危険なので、詳しくお書きになりません。朧月夜の君もたまらなく悲しくて、こらえてもこらえても、涙がお袖で拭いきれないほどあふれてくるのでした。
涙川 うかぶみなわも 消えぬべし 流れてのち の 瀬をも待たずて
(わたしこそ涙川に浮かぶ水泡よ やがてはかなく 消えるでしょう 流れゆくあなたの お帰りの日も待ちきれず)
泣く泣くお書きになった乱れた御筆跡が、しみじみお美しいのでした。源氏の君はせめてもう一度だけでもお逢いできないものか、このまま逢えずに別れて行くのだろうかと、残念でなりません。
それでも考え直されて、源氏の君を憎んでいる右大臣家のたくさんの一族の中にゆかりの人々が多い中で、朧月夜の君だけは、ひとり孤独に耐えていらっしゃるのがわかるので、そのお立場を察しられて、それ以上無理をしてまで逢おうというお便りをお出しにはならないのでした。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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