花散里のお邸では、源氏の君の行っておしまいになるのを心細くお思いになって、しきりにお便りをおよこしになるのも、無理もないことでした。花散里の君にも、もう一度逢っておかなければ、薄情だと恨まれそうなのがお気にかかるので、その夜はまたお出かけになるのでしたが、何ともいえないほど気が重くて、すっかり夜も更けきってからいらっしゃいました。 「このようにわたくしまで人並みにお扱い下さって、よくお立ち寄り下さいました」 と女御
がお喜びになられて、お礼を申し上げる御様子などは、こまごま書きつづけるのも煩わしいことです。 これまでまったく心細いお暮しぶりで、ただ源氏の君お一方ひとかた
の御庇護におすがりして暮してこられた歳月でしたので、これから先はこの邸も、さぞ荒れはててゆくことだろうと思いやられます。邸内はいつにもまして、ひっそりしております。 月がおぼろにさしてきて、庭の池が広々と見え、築山つきやま
の木々の繁った辺りがもの寂しく見えるにつけても、遠く都を離れてこれから住む、巌いわお
の中のような侘住わびず まいが思いやられるのでした。 西面にしおもて
にいらっしゃる花散里の君は、とてもこうまでして源氏の君が起こし下さりはしないだろうと、ふさぎ込んでいらっしゃいました。そこへひとしおお趣深い月の光が、優艶ゆうえん
にしっとりと照らしている中を、お歩きになるにつれて匂い立つ薫物たきもの
の香りを、たとえようもなく芳かぐ
わしく漂わせながら源氏の君は音もなく訪れ、ひそやかに内にお入りになりました。 花散里の君は奥からすこしにじり出て来て、そのままおふたりで月を眺めていらっしゃいます。 またこちらでしんみりとお話なさるうちに、明け方近くになってしまうのでした。 「何と夜の短いことでしょう。こんなはかない逢瀬おうせ
さえ、二度とは持てないのではないかと思うと、いたずらに過ごしてしまったこれまでの年月が悔やまれてなりません。来し方、行く末も、世間の語り草にもされそうな身の上で、何となく心もあわただしく、しみじみお逢いする閑もありませんでしたね」 と、過ぎ去った昔の思い出話などをなさいます。そのうち鶏とり
もしきりに鳴き出しましたので、人目を憚ってあわただしくお出ましになりました。いつもながら月が山の端に消える風情が、源氏の君のお帰りになるのに比べられて、花散里の君はしみじみとした想いに引き込まれます。 花散里の君の濃い紫色のお召物に月光が映えているのが、いかにも古歌の
<我が袖に宿る月さへ濡るる顔なる> の風情そのままなので、 |
月影の
やどれる袖は せばくとも とめても見ばや あかぬ光を (月影のやどるわたしのこの袖は たとえこんなに狭くても いくら見ても見飽きない
月の光に似た美しいあなた この袖にいついつまでもとどめたく) |
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と詠まれました。いかにも悲しそうにしていらっしゃるのがおいたわしいので、源氏の君もお辛いながらも慰めておあげになります。 |
行きめぐり
つひにすむべき 月影の しばし曇らむ 空な眺めそ (いつの日かかならず めぐり帰る月 ほんの今だけ曇るのを そんな悲しい目つきで
ごらんにならないで) |
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「それにしても、思えばはかないことですね。ただそれこそ
<行く先を知らぬ涙の悲しき> と歌われた涙ばかりが流れて。心を暗くするのです」 などとおっしゃって、まだ明けきらぬ暗いうちにお立ち帰りになりました。 |