〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/18 (木) 

須 磨 (四)
二条の院へお帰りになりますと、源氏の君のお部屋づきの女房たちも、一睡もしなかったと見え、あちらこちらに寄り集まっていて、思いもかけない世の変わりように、ただあき れ悲しんで、呆然ぼうぜん としている様子でした。
家来たちの詰所には、日頃親しく源氏の君にお仕えしてきた者たちが、どこまでもお供していく心づもりをしていて、それぞれ家族や恋人たちに別れを惜しみに行っているのか、人影もありません。
そのほかのあまり縁故のない人たちは、このお邸にお見舞いに来るだけでも、重い咎めを受け、面倒なことが多くなりますので、これまではいつも所狭しとばかりこのお邸に集まっていた馬や車の跡形もなく、森閑とものさびれています。
源氏の君は今更のように、世間はこうも浅ましいものだったのかと、つくづく思い知られるのでした。
台盤だいばん なども、使われる機会も少ないので、一部はほこり が積もり、薄縁うすべり はところどころ裏返して片づけてあります。
「自分がいる間でさえこんな有り様なのだから、自分が都を離れてしまった後では、この邸もどんなに荒れはてていくことか」
と、お思いになります。
西のたい にお渡りになりますと、紫の上が、御格子みこうし も下さないまま物思いに沈まれて、夜を明かしてしまわれたので、幼い女童めのわらわ たちは、縁側のあちこちにうたた寝していました。
源氏の君がいらっしゃったので、あわてて起き出してうろたえています。その女童たちが宿直姿とのいすがた のまま、可愛らしい様子でいるのを御覧になるにつけても、自分がいなくなった後、心細く長い年月を過ごせば、こういう人たちも、辛抱しきれなくなって、散り散りに去ってしまうことだろうなどと、いつもならほとんでお気にもされないことにまで、お目がとまるのでした。
「昨夜は、これこれのわけで、夜も更けてしまったのであちらへ泊りました。また、いつものように心外な外泊をしたと、気を廻されたのでしょう。こうして都にいる間だけでもそばを離れずに一緒にいたいと思うのに、こんなふうに世間を離れるような場合には、何かと気がかりなことがどうしても多くなって、そうそう家に引き籠ってばかりもいられないのですよ。この無常の世の中に、人から薄情者と、嫌われてしまうのも、残念ですしね」
と、おっしゃいますと、紫に上は、
「こんな悲しい目にあうよりほかに、心外なことなんて、どんなことがあるのでしょう」
とだけおっしゃって、たいそう悲しそうに思いつめていらっしゃる御様子が、とりわけ痛々しいのも、源氏の君は無理もないと御覧になるのでした。紫の上の父宮は、もともと疎遠だった上、ましてこの節は、世間の噂を気にされてお便りも下さらず、お見舞いにさえいらっしゃいません。紫の上はそうした父宮の態度が、女房たちの手前も恥ずかしくて、かえって父宮に、ここにいることを知られないままでいた方がよかったのにと、お思いになります。継母の北の方などが、
「降ってわいた幸運の、なんとまあ短いこと、縁起でもないわね、可愛がって下さる方には、次から次へ別れる運命の人なのね」
とおっしゃっていたのを、ある所から れ聞かれました。紫の上はつくづく情けなくて、それ以来、こちらからもふっつりとお便りをさしあげなくなりました。源氏の君のほかに頼りにする人もなくて、ほんとうにお気の毒な御身の上なのです。
「もし、いつまでも御赦免しゃめん がなくて年月がたつようなら、どんな粗末な岩屋の中にでもあなたをきっとお迎えしよう。しかしさしあたって今すぐそんなことをしたら、さぞかし世間の聞こえが悪いことだろう。朝廷からお咎めをこうむ った謹慎の身は、明るい陽の光や月の光さえ見えないようにして蟄居ちっきょ するのが当然で、気楽に自由な行動をすることは、非常に罪が重いのだそうです。わたしは何も悪いことはしていないのに、前世からの因縁で、こんなことになってしまったのだろうと思う。まして遠流おんる の地に、愛する人を連れて行くのは前例のないことだし、世の中がただもう一途に狂ったようになり、道理の通らぬこの頃の有り様では、そんなことをすれば、今よりひどい災厄が、ふりかかってくるかもしれないのですよ」
などと、お言い聞かせになるのでした。
その日は日が高くなるまで、おふたりで寝間に籠もり、おやす みになっていらっしゃいました。
そつみや や三位の中将などがお越しになりましたので、源氏の君はお目にかかるため、直衣のうし などをお召しになりました。位を奪われた無官の者は、と遠慮なさって、無地の直衣をお召しになります。そうした地味ななりをしていらっしゃるお姿が、かえって親しみ易く、お美しく見えます。
ぐし を整えられようと、鏡台にお向かいになりますと、鏡の中のおも やつれしたお顔が、われながらけだかく美しいので、
「すっかりやつれてしまったね。ほんとうにこの鏡の中の姿のように せたのだろうか。情けないことだ」
と、おっしゃいますので、紫の上は、涙を目いっぱいに浮かべてこちらを御覧になるのでした。源氏の君にはその姫君の様子が、何とも堪えがたいほど悲しくてなりません。
身はかくて さすらへぬとも 君があたち 去らぬ鏡の 影は離れじ
(たとえこの身は地の果てまで さすらいの旅つづけても あなたの鏡の面には わたしのおもかげがとおdまって あなたと離れはするものか)
と源氏の君がおっしゃいますと。紫の上は、

別れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし
(ととえあなたと別れても 恋しいあなたのおもかげが せめて鏡に残るなら 日がな一日この鏡 飽きずに眺め暮しましょう)

と口ずさまれ、柱の陰に隠れて坐り、涙を見せまいとしていらっしゃる御様子は、やはろこれまで逢ってきた多くの女君たちの中でも、比べようもなくすぐれたお方だったと、つくづくお思いになるほどのお美しさなのでした。
帥の宮は、しみじみと心にしみるようなお話をなさいまして、日も暮れた頃、お帰りになりました。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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