〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/17 (水) 

須 磨 (三)

今は三位さんみ になられたとう中将ちゅうじょう もそこへ参上なさって、御一緒に酒などおあがりになるうちに、夜も更けてしまいましたので、源氏の君はお泊りになられ、女房たちを御前にお呼び寄せになって、お話などをおさせになります。
他の女房よりは格別に、ひそかに情けをかけていらっしゃった中納言ちゅうなごんきみ という女房が、胸の思いを口にすることも出来ず、悲しそうにうち沈んでいる様子を、源氏の君も人知れず不憫にお思いになります。
人々が皆寝静まった後、源氏の君は中納言の君と、とりわけしみじみとむつ まじくお話になります。おそらくこの人のために、今夜はここにお泊りになられたのでしょう。
明くる朝は、まだ暗いうちに、お帰りになります。折から空には有明ありあけ の月が、たいそう美しく見えます。
桜の木々はしだいに盛りが過ぎて、わずかに咲き残っている木陰に落花が白く散り敷いています。
庭にはうっすらと、一面に朝霧が立ち込めて、ぼうっと霞んでいるのが、秋の夜のしみじみした風情より、はるかにまさっています。
源氏の君は縁のすみ欄干らんかん によりかかられ、しばらく庭を眺めていらっしゃいます。中納言の君はお見送り申し上げるつもりなのか、妻戸つまど を押し開けて控えております。
「再び逢えるのはいつのことか、思えばほんとうに難しいことだね。こういう世の中になるとも知らないで、逢おうと思えば何の気がねもなしにいくらでも逢えた月日を、よくもおんびり構えて逢わずにいたものだ」
と源氏の君がおっしゃるので、中納言の君は、言葉もなくただ泣くばかりでした。
若君の御乳母めのと宰相さいしょうきみ をお使いにして、大宮おおみや から源氏の君に御挨拶がありました。
「わたくしがお目にかかって親しく御挨拶申し上げたいのですが、あとさきも分からないほど悲しみにかきくれて、取り乱しておりますので、少し気を静めてからと思っておりますうちに、まだ夜もたいそう深いこんな時に、はやもうお帰り遊ばすとは、昔とすっかり様子の変わった心地がいたします。いじらしい若君がぐっすり寝入っておりますので、目を覚ます間だけでも、少しはお待ち下さいましたなら」
とおっしゃいますので、源氏の君もお泣きになって、

鳥辺山 とりべやま もえしけぶり も まがふやと 海人 あま の塩やく 浦見 うらみ にぞ行く
(恋しい人の亡骸 なきがら を焼き 鳥辺山に立った煙よ もしやそれに似ていないかと 海人の塩焼く須磨の浦まで はるばると煙を見に行くのだ)
お返事というでもなく口ずさまれて、
「暁の別れというものは、こんあんいも辛いものだろうか。この辛さを分かってくれる人もあるだろうね」
とおっしゃいますと、宰相の君は、
「いつに限らず、別れという言葉はいやなものでございますけれど、とりわけ今朝のお別れの辛さは、やはり比べようもないような心地でございます」
と、涙まじりの鼻声でいい、見るからに悲しそうにしています。
大宮へは、
「お話申し上げたいことも、胸にあふれるばかりですけれど、ただもう悲しみに心も閉ざされていて、申し上げることも出来ない気持をお察し下さいませ。ぐっすり寝入っている幼い人のことは、もう一度顔を見ますと、かえって憂き世を逃れにくくなるに違いございませんので、無理にも心を鬼にして、逢わずに急いでおいとま いたします」
と申し上げられました。
源氏の君のお帰りになるお姿を、女房たちはのぞ いてお見送りしています。西の山の端に入りかけた月の光が、まことに明るい中に、源氏の君がひとしお優雅にお美しく、物思いに沈み込んでいらっしゃるおのお姿は、猛々たけだけ しい虎や狼でさえ泣かされることでしょう。まして、源氏の君がまだ御幼少でいらっしゃった頃から、お馴染申し上げて来た人々なのですから、変わり果てた今のたとえようもないおいたわしい御境遇を、絶え難いほど悲しく思うのでした。
ほんとにそういえば、大宮の御返事は、
亡き人の 別れやいとど 隔たらむ けぶり となりし 雲居くもい ならでは
(はるかな旅に立つあなた 亡き人との別れも いよいよ遠ざかる 煙となったあの人の 都ではない遠い海辺に)
とありました。悲哀はいや増し加わって¥、尽きるところも知りません。
源氏の君がお帰りになってしまった後も、女房たちは不吉なまでに泣き合うのでした。
源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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