〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/17 (水) 

須 磨 (二)

三月二十日過ぎの頃に、源氏の君は都をお離れになりました。誰にも出発の日をお知らせにならず、ただお側近くにいつもお仕えしてきた者だけ七、八人ぐらいをお供になさり、人目に立たないよう、ひっそりと御出立しゅったつ になります。
お心にかかる女君たちへは、お手紙だけをひそかにさしあがられましたが、その中でも源氏の君をせつないほどしの ばれるように、言葉を尽くしてお書きになったのは、さぞ。かしすばらしいお手紙だったことでしょう。その折の悲しさに取りまぎれて、そのあたりのことはくわしくお聞きもしないままでした。
御出発の二、三日前、夜陰にまぎれて、源氏の君は前の左大臣のお邸をお訪ねになりました。網代車あじろぐるま の粗末なのにお乗りになり、女車おんなぐるま のように見せかけて、人目を忍んで門内へお入りになるのも、まことにおいたわしく、夢としか思われません。
亡きあおいうえ のお部屋も、見るからに淋しく荒寥こうりょう とした感じです。若君の御乳母めのと たちや、前からお仕えしていて、今も御奉公を続けている女房は、こうして源氏の君が久々にお越し下さったのをなつかしく思って、部屋部屋からもんな集まってまいります。そのお姿を拝するにつけても、大してもののわきまえもありそうにない若い女房たちまで、世の中の移り変わりの無常さを思い知らされて、涙にくれているのでした。
若君はたいsぷ可愛らしく、はしゃぎ廻っていらっしゃいます。
「長い間会わないのに、わたしを忘れないのは不憫ふびん だね」
と、若君を抱き膝に坐らせた源氏の君は、涙をこらえかねていらっしゃる御様子でした。
大臣がこちらへお越しになって、源氏の君に御対面なさいました。
「この節は、所在なくお引き籠りだとお伺いして、その間に参上して、何とはない昔話でもお聞きいただこうかと存じておりましたが、病が重いという理由で、わたしは朝廷にも出仕いたしまぜず、官職まで返上してしまいましたのに、私事わたくしごと には勝手気ままな行動をしてなどと、世間の取り沙汰もうるさそうですから、御遠慮していました。退官以来、今は世間に気がねもいらない身の上なのですが、何事も反応がきびしく速く襲ってくる世の中になり、まったく恐ろしいことです。こうしてあなたさまの思いもかけない悲しい御運勢を拝見するにつけても、長生きがしみじみうとましく思われます。まことに世も末でございますなあ。天地がひっくりかえっても想像も出来なかったおいたわしい御様子を目の当たりに拝しますにつけ、世の中すべてが、もうただ味気なく思われまして」
と、申し上げて、ひどく涙にかきくれていらっしゃいます。源氏の君は、
「あれもこれもなりゆきの、すべては前世の報いだと申しますから、煎じ詰めれば、ただわたし自身の運のつた なさだったのでしょう。わたしのように、きっぱり官位を召し上げられもせず、軽い罪に関りあった場合でさえ、朝廷のおとが めによって謹慎している者が、そのまま世間交わりして普通の生活をつづけてゆくのは、外国でも罪が重いこととされているとか。ましてわたしの場合は、遠国へ流罪すべきだという決定などもあると聞きました。とりわけ容易のならぬ重罪に当たることになるのでしょう。自分ひとり潔白な良心にまかせて、そ知らぬ顔で日を過ごしておりますのも、たいそうはばか りの多いことですから、これ以上大きな辱しめを受けないうちに、自分からこの都を逃れようと決心いたしました」
など、細やかに大臣に申し上げます。
大臣は昔の思い出話をなさり、お亡くなりになられた桐壺院きりつぼいんの御事、また院が源氏の君の将来についてお考え遊ばされ、御遺言なさいました御意向などを、お話はじめられて、御直衣のうし の袖も涙をぬぐわれるため、お目から離すことが出来ません。
源氏の君も、心強くはお振舞いになれずお泣きになります。若君が無心に遊び歩かれて、女房たちに誰彼となくまつわるついていらっしゃるのを、たまらなくいじらしくお思いになります。大臣は、
「亡くなりました姫のことを、いつまで経っても忘れることが出来ず、今もって悲しくてなりませんが、この度の悲しい出来事を、もし生きておりましたなら、どれほど嘆いたことでございましょう。
よくぞ短命で、こんな悪夢のような御悲運を見ないですんだと思いますのが、せめてもの慰めでございます。それにしても、お小さい若君が、母をなくしてこんな年寄りたちの中に残されて、父君にお馴染なじ み申し上げないまま、月日が遠く隔たってゆくのかと思いますと、それが何にもまして悲しくてなりません。昔の人は実際に罪を犯した場合でさえ、こんな厳しし罰は受けなかったものでした。やはり前世からの宿業しゅくごう で、よその国でもこうした冤罪えんざい の例が少なくはありませんでした。しかしそれは、そんなふうに言い立てるだけの仔細があってこそ、そうした冤罪事件も起こったものです。この度のあなたさまのお身の上に起こったことは、どう考えても、納得のゆかぬことでございます」
などと、数々のお話を申し上げます。

源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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