〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-Y』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻三) ==
(著:瀬戸内 寂聴)

2016/02/16 (火) 

須 磨 (一)

世の中の情勢がたいそう不穏になり、源氏の君には立つ瀬もないほど情けなくいや なことばかりが多くなってきます。つとめてそ知らぬ顔をして平静を装っていても、今にこれよりもっと恐ろしい事態が起こるかも知れない、と感じるようになりました。
それならいっそ、流罪などというはずか しめを受ける前に、自分から都を離れ、遠くへ行ってしまおうとお考えになります。
「あの須磨すま という所は、昔こそ人の住家すみか などもあったようだが、今は、すっかり人里離れてもの淋しく荒れはてて、海人あま の家さえほとんど見られない」 とか、お聞きになりましたけれそ、
「あまり人の出入りの多いうるさい所に住むのは、この際、本意ではない。かといって、都をすっかり遠く離れてしまうのも、かえって故郷ふるさと の都のことがさぞかし気にかかることだろう」
と、源氏の君は、あれこれ見苦しいほどお迷いになります。
し方、 く末のことなど、あれこれすべてのことをお考えつづけになりますと、悲しいことが
実にさまざまあるのでした。厭な所だと御自分から見限り捨てておしまいになった世の中でも、さて、いよいよこれから離れてしまうのかとお思いになれば、さすがに捨てにくい未練のほだ しも多いのでした。中でもむらさきうえ が、日が経つにつれ、源氏の君とのお別れを明け暮れ嘆き悲しんでいらっしゃる御様子が、しみじみ可哀そうで、何にもましていとしくてなりません。
一度は別れても、必ずまためぐり逢えると分かっていながらも、ほんの一日二日、離れてお暮らしになる折でさえ、気がかりでならず、紫の上もひたすら心細がっていらっしゃいましたのに、このたびは、幾年いくとせ たてば帰れるという、期限のきれる旅路たびじ でもありません。
また逢う日を約束したところで、行方も知れずはて もない旅に別れて行くのです。無常の世の中のことですから、これがそのまま永久とわ の別れの旅立ちにでもなりはしないかと、源氏の君は悲しくてたまらないのでした。それならいっそ、こっそり紫の上を伴って行こうかとお考えになることもありました。けれどもそうしたもの淋しい海辺の、波風のほかに立ち寄る人もなさそうな所に、こんな可憐な、いじらしい人をお連れになるのはいかにも不都合で、御自身のお心にも、かえって悩みの種になるだろうから、連れては行けないと、思い直されます。紫の上は、
「つらい旅路でも、御一緒に連れて行ってくださるなら、どんなに嬉しいでしょう」
というお気持を、それとなく匂わせて同行をせがみ、恨めしそうにしていらっしゃいます。

あの花散里はなちるさと の君のおやしき でも、心細くお気の毒なお暮しむきとはいえ、源氏の君がめったにお訪ねにならなくても、君の御庇護ひご のおかげで平穏に暮していらっしゃいました。それだけに、源氏の君が遠くに行っておしまいになると聞いて、なみなみならず悲しんでいらっしゃるのも、無理もないことでした。
ほんのちょっとしたかかわりで、わずかな逢瀬おうせ を持たれた方々の中にも、ひそかに心を悩ませていらっしゃる方も多いのでした。
藤壺ふじつぼ尼宮あまみや も、
「世間の噂にまたどのように取り沙汰されることか」
と、御自分の御ためにも用心したことはないと重々わかっていらっしゃりながらも、ひそかに、度々お見舞いのお便りをなさいます。
源氏の君は、
「昔、こんなふうにお互いに愛し合って、やさしい情愛もお見せくださっていたなら」
と、あの頃のことをお思い出しになるにつけ、
「どうしてこうも色々と、限りなく苦労ばかりをしつくすような二人の宿縁なのか」
と、たまらなくお思いになります。

源氏物語 (巻三) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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