御息所は正気づくと、自分の体にも衣類にもしみている芥子
の匂いに愕然とする。芥子は護摩ごま
を焚く時火中に投げ入れるものである。自分の理性は認めないのに、潜在意識が肉体をさ迷い出て、恨みあたりへ走ったのかと思うと、御息所はわが身が浅ましく身悶えする。髪を洗い体を洗い、衣類を着替えても芥子の匂いはまだ消えない。 御息所の情熱と嫉妬は凝り固まって物の怪となり、現実と非現実の世界を跳梁するのだ。 こんな女を描ききった紫式部は、作中の誰よりも御息所の心に近かったのではないだろうか。知性も理性も歯が立たない女の生理と怨念の悲しさ。 物の怪が去ると、瀕死だった葵の上は、すらすらと男の子を産む。 この報せに御息所はまた、烈しいショックを受ける。 「死ぬと思っていたのに」
という自分の心の声を聞く。 その御息所の怨念を受けたように、安産の後、葵の上は急死してしまう。たまたま除目じもく
の日で左大臣邸の男たちは参内していて、誰も居なかった。 葵の上の喪中に、源氏は掌中の珠のように大切にして育てて来た紫の姫君と新枕を交わす。不謹慎とも不誠実とも読者は愕おどろ
くだろうが、源氏はこれまでも、自分の情欲を遂行する場合、そんな遠慮は一向にしていない。 「男君はとく起き給ひて、女君はさらに起き給はぬ朝あした
あり」 というだけの文章で、その前夜に起こった紫の上の処女喪失を表している。その朝の紫の上の驚きと悲しさと恥かしさを、いじらしく痛々しく書いた紫式部の小説作りの上手さは、ただただ舌を巻く。源氏は身寄りのない紫の上のために後見者役もつとめ、三日夜の餅の用意まで整えるのだった。 新婚の可憐な紫の上の魅力に熱中した源氏は、他の女たちをかえりみるゆとりも失っていた。 朧月夜の君は源氏との醜聞のせいで東宮妃という光栄な未来を失ったが、
「御匣殿みくしげどの 」 として宮仕えしている。 父の右大臣は、葵の上の死後、源氏と結婚させてもいいという考えを抱くが、源氏は受け付けない。 |