葵
(一) | 源氏二十二歳かの夏から二十三歳の正月までのこと。 「源氏物語」
の中の大きな山場の車争いの事件があり、その後、六条ろくじょう
の御息所みやすどころ の生霊いきりょう
が跳梁する、迫力ある帖である。つづく 「賢木さかき
」 の帖と共にそれぞれたっぷりの長さで詠み応えがある。 ここに来て 「源氏物語」 の醍醐味だいごみ
から読者はもはや逃れられないだろう。 桐壺帝が譲位して、東宮が帝位につき、世の中が一新する。桐壺帝と藤壺は仙洞せんとう
御所に移って気楽に暮し、源氏は前より藤壺に近づきにくくなる。源氏は近衛の中将から大将に昇進し、東宮の後見役になっている。 斎宮も御代替わりには替わるので、六条の御息所と前さき
の東宮とのとの間に出来た伊勢の斎宮に決定する。源氏の冷たさに耐えかねて、御息所は異例だけれど娘の斎宮と共に伊勢に下ろうかと思い悩んでいる。 賀茂の斎院には弘徽殿の女御の女三の宮が立つ。斎院が賀茂の河原で御禊みそぎ
をする時、源氏はその行列に加わる。 葵の上は妊娠していて気が重かったが、女房たちにせがなれて夫の晴姿の見物に行く。六条の御息所も、情つれ
ない恋人だけれど、その晴姿を見ずにはいられない。見物人で混み合った一条通りで、御息所の車は、葵の上の車にわざと押しまくられて、酔いの廻っていた家来たちは興奮逆上して、御息所の車をさんざん傷めつける。無理無体に車は隅に押しやられ屈辱を受ける。この場面の、両家の家来同士の興奮状態、乱暴狼藉ろうぜき
ぶりの描写は、迫真の凄まじさがある。 御息所は人一倍高いプライドを打ちのめされ、葵の上への怨念が一気に内攻していく。葵の上が正妻であることが気に入らない。その上、源氏の子を妊みごも
ったことが許せない。愛していないと言っていたのに、源氏は葵の上の懐妊以来、葵の上につききりで安産の加持祈祷かじきとう
などを盛大にさせている。御息所にとってはすべてが気に入らない現実である。その上、この許せない凌辱。我にもあらず御息所の魂は現身うつしみ
を抜け出し、葵の上に物もの の怪け
となって取り憑つ いて苦しめる。 源氏は葵の上の病床で六条の御息所の生霊の姿を見てしまう。この場面、葵の上と思い込んでいた妊婦が、突然、御息所の俤おもかげ
と姿と声に変貌する凄絶さは、たとえようもない迫真の描写である。紫式部の筆の冴えはここに来て恐ろしいほどの輝きを見せる。 「たまらなく苦しいので、少し調伏ちょうぶく
をゆるめて楽にしていただきたくて」 という御息所の声に、読者も源氏と共に背筋に悪寒が走るだろう。 源氏はそれ以来、御息所がひたすらおぞましくなり、ますます心が離れていく。
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