〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/02/09 (火) 

賢 木 (二十一)
源氏の君はその場にお残りになられて、申し上げる言葉も失い、ただもう茫然と、なすすべも知らず途方に暮れていらっしゃいます。あまり取り乱しては、どうしてそれほどお悲しみになるのかと、まわりの人々に怪しまれるかも知れませんので、兵部卿の宮などが御退出なさった後で、ひとり中宮の御前に参られました。
ようやく人の気配も静まって、女房たちが、鼻をかみながら、あちこちに群れ集まっています。折から月は隈無く照り渡り、月光が雪に照り映えている庭の景色を御覧になりましても、故院在世の昔のことが偲ばれますので、源氏の君はたまらなく悲しくお思いになります。強いて何とかお心をお静めになって、
「いったい、どのようにお考え遊ばして、こうも急な御発心ごほっしん を」
と申し上げます。中宮は、
「今はじめて思い立ったことでもございませんけれど、事前に発表すれば人々が騒ぎだしそうな様子でしたから、つい、覚悟もゆらぎはしないかと思って」
などと、いつものように王命婦を通して仰せられます。御簾みす に中では、大勢集まり控えている女房たちが、つとめてひそやかに身じろぎしながらたてるかすかな衣ずれの音などの気配が、悲しさをこらえかねているように、しめやかに漏れ聞こえて来るのが、いかにももっともなことと心にしみて、源氏の君はひとしおあわれ深くお聞きになるのでした。
風がはげしく吹きすさみ、御簾のうちには きしめられた奥ゆかしい黒方くろぼう の香の匂いがしみわたり、それに仏前に供えた名香みょうごう の匂いもほのかに漂っています。更に、源氏の君のお召物にたきしめた香の匂いまでが、かお り合って、極楽浄土の様子まで思いやられる結構な今夜の雰囲気なのでした。
東宮の御使いも参上いたしました。中宮は先日お逢いした時、東宮がお話になる可愛らしいお姿をお思い出しになられるにつけても、張りつめてきたお心強さも耐え切れなくなって、お返事も申し上げらえません。見かねて源氏の君が、お口添えをしてさしあげられるのでした。
誰も誰も、そこにいる「うべての者は、心の動揺の静まらない折なので、源氏の君もお心のうちを、お言い出しになることが出来ませんでした。
月のすむ 雲居こもゐ をかけて したふとも この世の闇に なほやまどはむ
(今宵の月のように 清らかなお心を澄ませた 御出家に憧れても この世の煩悩の闇に迷い 叶わぬことだろう)
「このように思われますのが、何ともせんないことでございます。御出家をお遂げになってしまわれたことが、お羨ましくてなりません」
とだけおっしゃいます。女房たちが、中宮のお側近くに控えておりますので、さまざまに思い乱れる心の中も、何ひとつ申し上げることが出来ないので、じれったくてなりません。
大方おほかた きにつけては いと へども いつかこの世を そむ き果つべき
(世の中のすべてが 辛くはかなく 世を捨てて出家したのに いつになれば子ゆえの心の闇を 抜けきることができるやら)

「なおまだ、煩悩ぼんのう が残りまして」
などとご返事のある箇所などは、取次ぎの女房が適応にとりつくろって源氏の君にお伝えしているのでしょう。悲しみばかりが限りなく尽きませんので、胸苦しくなられて御退出ばさいました。
二条の院にお帰りになっても。御自分のお部屋にひとりお寝みになったまま、お眠りにもなれず、世の中をうとましく思いつづけられます。それにつけても、東宮の御ことだけが御心配でならないのでした。故院はせめて母宮だけでもおおやけ の御後見にと中宮にお立てになられましたのに、その中宮が世の中の辛さに堪えきれなくて、御出家しておしまいになられたのですから、もう中宮の御位のっまではとてもいらっしゃられないでしょう。その上に自分までが、東宮をお見捨て申し上げて出家してしまっては、などと限りなく思い惑われて、夜を明かしておしまいになるのでした。
今の中宮には出離者としてのお暮らしの調度の品などこそ必要だろうと、源氏の君は思われて、それ等を年内にお贈りしようと、急いでお造らせになるのでした。
王命婦も中宮のお供をして尼になってしまいましたので、そちらも心をこめてお見舞いになりました。
こまごまとそのことを話しつづけるのも仰山らしいので、書きもらしてしまったのでしょう。ところが、実はこういう折にこそ、心をうつ歌などが生まれることもありますのに、それらが洩れ落ちたのは物足りないことです。
御出家の後は、源氏の君が尼宮に参上しても、御遠慮が薄らぎましたので、取り次ぎなしに尼宮ご自身でお返事遊ばす時もあるのでした。お心に深く秘めた恋は、けっして消えはしませんけれど、御出家の後では以前にも増して、あってはならないことなのでした。

源氏物語 (巻二) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next