〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/02/05 (金) 

賢 木 (十七)

源氏の君は天台六十巻という経典をお読みになり、ご不審の箇所を学僧に解明させなどなさり、御逗留していらっしゃいます。雲林院では、
「日頃のお祈りの功徳くどく で、有り難く貴い光明があらわれたのだ。これで御本尊の御面目も立った」
などと、身分の低い法師たちまでが喜び合っています。
源氏の君は静かに心を落ち着けて、世の中のことをお考えつづけていらっしゃいますと、都に帰ってゆくことも、何となくお心が進みません。けれども、ただあの紫の上おひとりの身の上をお案じなさいますのが、仏道修行の妨げになりますので、そう長くはご滞在にもなれず、雲林院にも御誦経みずきょう のお布施を莫大ばくだい になさいました。寺にいる者たちは皆、上下かみしも の僧たちや、そのあたりの里人にまで施物せもつ をおさずけになり、あらゆる功徳の限りを尽くされて、お帰りになりました。
お見送り申し上げようと、あちらにもこちらにも、口をもぐもぐさせいる老人たちまで集まって来て、涙を落としながら、お姿を拝しています。喪中なので黒く装った御車の内に、喪服の藤衣ふじごろも に身をおやつしになっていらっしゃいますので、お姿はよく見えないのですけれど、隙間からちらと拝した御有り様を、人々は、世にまたとなく御立派だと思うのでした。

二条の院の紫の上は、しばらく見ない間に、いっそう美しく大人になられた感じがして、たいそうしっとりと落ち着いていらっしゃり、源氏の君との仲はこの先どうなっていくのだろうとお案じになられる御様子が可哀そうにも、いとしくもお思いにならえます。道ならぬ恋に思い乱れる自分の心が、はっきり女君にわかるのだろうか、 「色かはる」 と歌に怨じてこられたことも可愛く思い出されて、いつもよりこまやかに、やさしくお話しなさるのでした。
山寺からのお土産に持って帰られた紅葉を、お庭にあるのと見比べて御覧になりますと、山の露に殊に色濃く染められた紅葉の美しさが殊の外見捨て難く思われます。藤壺の中宮へのあまりのご無沙汰は、世間の手前も悪いようにお感じになりましたので、ただ、一通りの御挨拶のように、さりげなくその紅葉を中宮にお贈りしました。王命婦にもとに、
「中宮が東宮をお訪ねなさいましたのを、珍しいことと承りますにつけて、その後の東宮と中宮のお二方の御事が気がかりで心が落ち着かずお案じ申し上げておりましたが、仏道の勤行を思い立ちました予定の日数を果たさないのも、不本意なことかと存じまして、心ならずもつい日数が経ってしまいました。紅葉はあまりにも見事で、一人で見ましても、夜の錦を見るようで見映えもいたしませんのど、どうかよい折に中宮のお目にかけて下さいますよう」
などと書いてありました。その紅葉は、ほんとうに見事な枝だったので、中宮もお目をひきつけられますと、例によって、小さな結び文が枝につけてあるのでした。女房たちの目がありますので、中宮はお顔の色も変えられて、
「今でも未だ、こうしたお心のなくならないのが、ほんとうにいやなこと、惜しいことに、あれほど思慮深くしていらっしゃるお方が、不意にこんなことを時々なさるのを、女房たちもおかしと思うだろうに」
と、うとましくお思いになられて、紅葉の枝はかめ に挿させて、ひさし の柱のそばに、無造作におしやらせておしまいになりました。
ちょっとした御用事や、東宮に御関係のあることなどは、源氏の君を頼りにしていらっしゃるようにして、お手紙などは、堅苦しい他人行儀なお返事ばかりをなさいますので、源氏の君は、いったい、中宮はどこまで賢くて、自分に用心深くなさることかと、恨めしくお思いになりますけれど、これまで何によらずお世話してさし上げて来ましたので、今更、よそよそしくして人にあやしまれてもとお思いになって、中宮が宮中から御退出なさるという日に、お迎えに参内なさいました。

源氏物語 (巻二) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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