賢
木 (八) | あの朧月夜の御匣殿みくしげどの
は、二月に尚侍ないしのかみ におなりになられました。桐壺院の御喪に服して、そのまま尼になられた、前さき
の尚侍の後任なのでした。 朧月夜の尚侍は、いかにも高貴の姫君らしくふるまわれ、お人柄も上品でいらっしゃいますので、たくさんお仕えしていられる女御や更衣方の中でも、帝の御寵愛が格別で、すぐれてときめいていらっしゃいます。 弘徽殿の大后は、お里がちでいらしゃって、宮中に参られる時は、梅壺の御局おつぼね
をお使いになりますので、弘徽殿の御局には、御妹の尚侍かん
の君をお住まわせになります。それまでお住みだった登花殿とうかでん
が奥まったところで陰気だったのに引きかえ、弘徽殿は晴れ晴れしくなり、女房なども数知れぬほど集まって参りました。華やかで陽気に暮していらっしゃいますが、尚侍の君のお心のうちは、思いもかけなかった源氏の君とのことが忘れなれなくて、悲しんでいらっしゃるのでした。今でもごくひそかにこっそりと、お手紙を通わしていらっしゃるのは相変らずなのでしょう。 源氏の君は、もしこれが世間の噂にでもなったらどうなることかとお思いになりながらも、いつものお心癖で、帝の御寵愛の方となった今、かえって恋心がつのられるようなのです。弘徽殿の大后は故院の御在世中こそ遠慮していらっしゃいましたが、もともと烈しい御気性なので、今までいろいろ根に持って思いつめられていたあれこれの復讐ふくしゅう
を、今こそしようともくろんでいらっしゃるにちがいありません。何かにつけてどうしていいか苦しむようなことばかりが起こってくるので、源氏の君は、こうなるだろうとは覚悟されていたものの、経験なさったこともない憂き世の辛さに、周囲の人々と付き合うお気持までなくされていくのでした。 左大臣も、おもしろくないお気持で、ことさら参内もなさらなくなりました。亡くなられた葵の上を、帝の東宮時代に、東宮妃にと御所望されたのをさしおいて、源氏の君に縁づけらてた心を、大后は根に持たれて、未いま
だに快くは思っていらっしゃいません。右大臣との御仲ももともとよそよそしかったところへ、故院の御在世中には、何事も左大臣の思い通りにいしていらっしゃったのに、時世が変わって、今は右大臣が得意顔でおられるのを、左大臣が苦々しくお思いなのも道理なのです。 源氏の君は葵の上の御生存中と変わらず、左大臣邸にお通いになって、葵の上にお仕えしていた女房たちのことも、かえってこまやかにお目をおかけになります。若宮を、この上なく大切にお可愛がりになりますので、しみじみもったいないお心だと左大臣は有り難がり、一層何かと源氏の君にお尽くしなさることは、全く昔と同じなのでした。
一頃ひところ
は故院の限りない御寵愛があまりにもいちじるしかったため、人気がありすぎて、少しのお閑もないほどお忙しそうにお見受けしました。けれどもこの頃ではお通いになられた女君の所も、それぞれ疎遠になられて、軽々しいお忍び歩きも、御身分にふさわしくないとお思いになられるので、特にそのためお出かけにもならず、たいそうのどかに落ち着かれて、今の方がかえって望ましい理想的なお暮らしぶりなのでした。 西の対たい
の紫の上の御幸運を、世間の人々も感嘆申し上げています。乳母めのと
の少納言なども、人知れず故尼君のお祈りの効験だろうと思っております。今では父宮の兵部卿の宮とも自由に文通していらっしゃいます。宮の御正室のお産みになった姫君たちで、この上ない良縁をと望んでいらっしゃる方々には、これといった幸運な縁談も訪れませんので、二条の紫の上を嫉ねた
ましく思うことが多くて、継母ままはは
の北の方はおだやかでないお気持のようです。何だか継子物語にわざわざ作ったような御有り様でございます。 |
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