〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/27 (水) 

賢 木 (三)

思いのままにいつでもお逢いすることができ、また、御息所からも恋い慕われていらっしゃったあの昔の歳月は、源氏の君の方では安心しきってゆったり構え、自信たっぷりでいられたため、それほどせつなく恋いこがれてはいらっしゃらなかったのでづ。また、内心、何としたことか、御息所に思わぬ欠点があることを発見なさってからは、次第に恋心もさめてゆき、ふたりの御仲もこれほどまで隔たってしまったのでした。久々の今夜の逢瀬おうせ が、昔を思い起させるので、源氏の君はたまらなく切なくなられお心も限りなく乱れるのでした。来し方行く末を思いつづけられて、心弱くお泣きになられます。
御息所は、それほど悩んでいるようには見られまいとして、お気持をおし隠していらっしゃいますけれど、どうしても隠しきれない御様子になるのを、御覧になられて、源氏の君はますますお気の毒にも辛くもなられて、伊勢下向は、やはり思いとどまられるようにとおすすめになる御様子です。
月も入ったのでしょうか、物思いをそそる空を眺めながら、源氏の君が切々とかき口説かれるのをお聞きになっていると、御息所は、この年月お胸にたまりにたまっていらしゃった恨みの、お辛さも、たちまち消え果てしまわれたことでしょう。さんざん悩みぬかれた末に、ようやく今度こそはと、未練を断ち切っておしまいのなったのに、やはり、お逢いすれば、予感した通り、かえって決心も鈍って、お心が乱れ迷うのでした。
殿上でんじょう の若い公達きんだち などがうち連れて遊びに訪れ、ともすれば立ち去り難くなるというこの庭のたたずまいは、まことに優雅な趣をそな えていて、どこの庭にもひけをとらないようでした。
お互いに恋のあらゆる物思いを味わい尽くされたお二人の間で、その夜、語り合わされたさまざまのことは、とうていそのままお伝えするすべもありません。
ようよう明け離れてゆく空のけしきも、ことさら作り出したかのように深い情趣をたたてています。
暁の 別れはうつも 露けきを この世は知らぬ 秋の空かな
(あなたとの暁の別れは いつも涙に濡れていたが 今朝のこの別れこそ かつての恋に覚えもない 切なく悲しい秋の空)
と詠まれて、立ち去りにくそうに御息所のお手をとってためらっていらっしゃる源氏の君の御様子は、この上ないおやさしさです。
風がたいそう冷ややかに吹き、松虫の鳴きからした声も、まるでこの暁の別れのあわれ深さを知っているかのように聞こえます。これといった物思いのない身にさえ、聞き逃し難い気のする風の声や虫の声です。まして、どうしようもないほどやるせなく思い悩んでいらっしゃるお二人には、かえってお歌も、日頃のようにはかばかしくお詠みになれないのでしょうか。
おほかたの 秋の別れも かなしきに 鳴く音な添へそ 野辺のべ の松虫
(秋の別れはおおかた 悲しいものなのに この上悲しさをいやますように 鳴かないでおくれ 野辺の松虫よ) 
と、御息所がお詠みになりました。言い残したことで悔やまれることも多いのですけれど、今はもう、どうしようもないので、空が明るくなっていくのも恥ずかしくて、源氏の君はお立ち去りになられます。
そのお帰りの道すがらも涙がちで、お袖も涙の露にしとど濡れたことでしょう。
御息所も、とうてい気強く堪えてはいらっしゃれず、源氏の君の立ち去られた後、名残惜しさにわれうぃ忘れ悲しみに放心していらっしゃいます。月影の中に、ほのかに浮かんでいたお姿や、まだあたりに漂っている残り香などを、若い女房たちはしみじみと慕わしく感じながら、たしなみも忘れ、はしたないことでも仕出しかねないほどお讃めしています。
「どんなに大切な御旅行といっても、あんなにすばらしいお方をお見捨てして、お別れすることなど出来るでしょうか」
と言っては、わけもなく誰も涙ぐんでいます。
源氏物語 (巻二) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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