〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/26 (火) 

賢 木 (二)

はるばると広い嵯峨野さがの に草を分けてお入りになりますと、しみじみともののあわれな風情が漂っています。秋の花はみなしおれて、浅茅あさじはら も枯れ枯れに淋しく、弱々しくすだく虫の音に、松風が淋しく吹き添えて、何の曲とも聞き分けられないほど、かすかな琴の音色ねいろ が絶え絶えに伝わってくるのが、言いようもなく優艶なのでした。
親しくp仕えする前駆の者十人余り、御随身みずいじん なども物々しい装いではなくて、たいそうお忍びでいらっしゃいますけれど、殊の外お心をこめて装われた源氏の君のお姿が、まことに御立派にお見えになりますので、お供の風流者たちは、さらに嵯峨野という、趣深い場所柄も相俟あいま って、いっそう身にしみじみと感じいるのでした。
源氏の君も、どうして今まで度々訪れなかったのだろうと、空しく過ぎて来たこれまでの日々を口惜しくお思いになります。
わび しげな形ばかりの小柴垣こしばがき を外囲いにして、中に板屋があちこちに見えるのが、ほんの仮普請かりぶしん のようでした。黒木の鳥居のいくつかが、さがす場所柄のせいか神々こうごう しく見渡されて、恋のための訪れは気が引けるような雰囲気です。神官たちが、庭のそこ、ここに立っていて、咳払せきばら いをしながら、お互いに何か話しあっている気配なども、重々しく感じられて、一般の場所とは変わった雰囲気にみえます。火焚屋ひたきや だけにほのかに燈火が光り、人気ひとけ が少なくひっそりとしています。
ここに憂愁に沈んだ御息所が、長い月日をお過ごしになってこられたのかと、お思いやりになりますと、源氏の君はたまらないほどせつなく、御息所をおいたわしくお思いになるのでした。
北のたい のほどよい所に隠れてお立ちになり、来訪の旨をお伝えすると、楽の音がすっとやんで、女房たちの奥ゆかしいきぬ ずれの音や、衣裳にたきしめた香のゆれ動く匂いなどがいろいろと伝わって来ます。
何かと女房たちのお取り次ぎなかりで、御息所御自身は一向に御対面して下さりそうもありませんので、源氏の君はたいそう気を落とされて、
「こういう軽々しい外出も、今では不似合いな立場になっておりますのを、お察し下さいますなら、こんなふうに他人行儀なよそよそしいお扱いはなさらないで下さい。胸につまったわだかまわりも、お話して晴らしたく思いますのに」
と、心からおっしゃいますと、女房たちは、
「ほんとうに、とてもおいたわいくて見ていられませんわ。あんなところに立ちあぐねていらっしゃいますのに。お気の毒で」
など、お取りなしを申し上げますので、御息所は、
さて、どうしたものかしら、この女房たちの手前も見苦しいし、斎宮はお聞きになったら、年甲斐もなく浅慮な振舞いとお思いになるだろう。かといってこちらから端近はぢか に出て行ってお逢いするのも、今更気恥ずかしいことだし」
と、あれこれお迷いになりますと、ますますお気持が進まないのですが、冷たく突っ放すほどの気の強さもありませんので、迷いぬかれてため息とともに、ためらいながらようようにじり出ていらっしゃいます。その御気配がこの上なく奥ゆかしく伝わって来ます。
「こちらでは、縁先に上るくらいはお許しいただけましょうか」
と、源氏の君は、上ってお座りになりました。折からはなやかにさし昇って来た夕月の光に、源氏の君の立ち居の御身のこなしが照らし出されて、その気品と美しさは比べるものもありません。
幾月にもわた る御無沙汰を、もっともらしく言い訳しますのも、気恥ずかしいほどになっておますので、源氏の君はさかき を少し手折たお って持っていらっしゃったのを、御簾みす の中にさし入れて、
「この榊の葉の色のように、変わらぬ心に導かれて、神の斎垣いがき も越えて参りました。それなのに、なんと冷たいお扱いでしょうか」
とおっしゃいますと、

神垣は しるしの杉も なきものを いかにまがへて折れる榊ぞ
(野の宮の神垣には 人を導く目じるしの 杉の木もないのに どうまちがえて 折られた榊なのか)
と御息所はお答えになります。源氏の君は、
乙女子おとめご が あたりと思へば 榊葉の 香をなつかしみ とめてこそ折れ
(神にお仕えする 清い乙女のいるあたりと 思えばこそ 榊はの香がなつかしく 探して折ってきたもの)
と、おっしゃって、あたり一帯の神域らしい雰囲気にはば られますけれど、それでも御簾をひきかぶるようにして、半身を内へお入れになり、長押なげし に寄りかかっていらっしゃいます。
源氏物語 (巻二) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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