〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/23 (土) 

葵 (二十二)

あたりを見回して御覧になりますと、几帳の後ろ、襖の向こうなどの開け放され見通しになったあたりに、女房たちが三十人ばかり身を寄せ合うようにしています。濃いのや薄いのやさまざまな鈍色にびいろ の衣裳を着て、皆たいそう心細そうに、涙に沈みながらしおれきって集まっています。それを御覧になると、源氏の君は、ほんとうに可哀そうにと同情なさいます。左大臣は、
「お見捨てなさるはずのない若君も、ここに残っていらっしゃるのですから、いくら何でも、おついでの時はお立ち寄り下さらないなずはばいなぢ、自分で慰めているのですが、ただもう分別もない女房などはこの邸を、今日限りお見捨てになってしまう古里ののように、悲観してしまっております。故人とのなが の別れの悲しみよりも、ただ折にふれて親しくお仕えいたして「まいりました歳月が、これですっかり跡かたもなく消え去るであろうと、女房たちが嘆き悲しんでいるのも、もっともなことでございます。ついにこれまでも、ごゆっくりとうち解けて、この邸においで下さることはございませんでしたが、それでのいつかはと、あてにならないことを頼みにしておりましたのに、ごんとうに、心細い夕べになりました」
と、おっしゃるにつけても、またお泣きになるのでした。源氏の君は、
「それはどなたもあまりにも浅はかな御心配です。まず、さしあたって葵の上がどんなに冷たくても、そのうちおつかはわかっていただけるだろうと、のんきのかまえておりました間は、自然、御無沙汰がちのこともございました。しかし、今となっては、かえって何を理由にして御無沙汰することが出来ましょう。そのうち、きっとわたしの気持もおわかりいただけましょう」
と、おっしゃって、お出かけになりますのを、左大臣はお見送りなさってから、源氏の君のお部屋にお戻りになりました。お部屋の御調度や装飾をはじめとして、何一つ昔に変わることはないのですけれど、住む人のいなくなった部屋は空蝉うつせみ のようにうつろな、淋しい感じがいたします。
御帳台みちょうだい の前に、おすずり などが散らかったまま置かれいます。源氏の君のお手習いの捨て反古ほご を左大臣は拾い上げて、涙をおししぼりながら御覧になりますのを、若い女房たちは、悲しみながらもほほ笑んで見ているのでした。そこには心を打つ古人の詩歌などを、唐のものやら大和のものなど書き散らしては、草仮名そうがな も漢字も、いろいろめずらしい書体で書きまぜてあるのでした。
「何というみごとな御筆跡だ」
と、左大臣は空を仰いで嘆息なさりながら、御覧になるのでした。これほどのお方と、これからは他人づきあいをしてゆかねばならないのが惜しまれてならないのでしょう。
ふる き枕、ふるふすま 、誰と共にか」 とある漢詩のそば に、

亡きたま ぞ いとど悲しき 寝し床の あくがれがたき 心ならひに
(亡き人の魂もさぞ悲しく 去り難かったことだろう 二人で共寝した思いでの 愛の寝床をいつまでも 離れたくなく思うから)
また、 「霜の花白し」 とあるところに、
君なくて ちり つもりぬる とこ夏の 露うち払ひ いく夜寝ぬらむ
(あなたが亡くなってから 塵の積もってしまった床で 涙を払いながら 淋しし独り寝を 幾夜重ねたことやら)
と、あります。先日、歌につけて大宮に送られた時の撫子の花なのでしょう。枯れて反古の中に交じっております。左大臣はこの御筆跡を大宮にお見せになって、
「今更言っても甲斐ないことは言うまでもないけれど、こんな悲しい逆縁ぎゃくえん の例も、世間にはないわけではないと、無理に思ったり、また、あの娘はこの世の縁は短くて、こんなに親の心を悲しませるように生まれついたのだろうと思うと、なまじこの世で親子の縁を結ぶようになった前世の因縁がかえって辛い。先の世からの約束ごとなのだから、悲しみをなだめていても、日数が積もるにつれて、ただ亡き娘が恋しくてたまらないのに、この源氏の君が今はもうこれ限り他人になってしまわれるのが、どう考えてもたまらなく悲しくてなりません。一日二日も源氏の君がお見えにならず、お通いが途絶えがちでいらっしゃったのでさえ、いつもたまらなくせつなくて、胸が痛んだものだったが、朝夕光がさしこむように思われた源氏の君というすばらしい光を失っては、これから先、どう生き永らえることができようか」
と、泣き声もおさえきれないで、号泣なさいます。それを見て御前に控えている年嵩の女房たちなどは、とても悲しくてたまらず、いっせいに泣き出したりしますのも、そぞろに寒いこの夕暮れの情景なのでした。
若い女房たちは、所々に集まりながら、お互いにそれぞれ今日の悲しみを、しみじみ語り合って、
「源氏の君のおっしゃられるように、若君のお世話を申し上げるのが、気も晴れて何よりの慰めになると思いますけれど、何と言ってもあまりにお小さくて、頼りないお形見ですわね」
と、言います。それぞれに、
「ちょっと里へ下がって、またお邸へ参りましょう」
と、言う者もありまして、互いに別れを惜しむにつけてもそれぞれしんみりとして、あわれなことが多かったのでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next