〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/22 (金) 

葵 (二十一)

源氏の君は、こうしていつまでも引き籠ってばかりも居られないと、桐壺院へ参上するこよにいたしました。お車を引き出して前駆の者が集まる頃に、心得顔に丁度時雨が降り注いで、木の葉を誘う風が、あわただしくあたりを吹きはらいますと、お前にお仕えしている女房たちはほんとうに心細くなって、少しは涙のかわく隙が出来かかったいた袖を、たちまちあふれる涙で濡らしてそまうのでした。
夜になってからそのまま二条の院にお泊りになるのだろうとお察しして、源氏のお付の家来たちもそちらでお待ちしようというつもりなのでしょう。それぞれ支度をして出て来たのを見ますと、今日限りで御来訪が絶えてしまうこともないだろうとは思いながら、女房たちはこの上なく、もの悲しくなってしまいます。
大臣も大宮も今日の有り様に、またお嘆きを新たになさいます。源氏の君は大宮に御挨拶のお手紙をさしあげます。
「院よりどうしているかと御心配のお言葉をいただきましたので、今日は、院の御所へ参ろうと存じます。ほんのしばらく外出いたしますにつけても、よくも今日まで生き永らえていたものよと、ただもう悲しみがこみあがてまいり、心も千々ちぢ に乱れます。御挨拶申し上げますのも、かえって悲しゅうございますから、そちらへは参上致しません」
と、ありますので、大宮は悲しみがいや増して涙にかきくれて目もお見えにならず沈み込んで、お返事もお書きになれません。左大臣だけが、早速こちらへお越しになりました。左大臣は、悲しみにたえきれなさそうに、おい袖を御目から離されません。それを拝見している女房たちも、たまらなく悲しい思いをしております。
源氏の君は、人の世のはかなさについて、それからそれへとお考えになられては様々な感慨にお泣きになるお姿が、しみじみとあはれに深い誠意のこもった御様子に見えながら、さすがにたいそう優雅でお美しいお姿をしていらっしゃいます。
左大臣はしばらくして、ようやく涙をおさめて、
「年をとりますと、それほどのことでなくても涙もろくなりますのに、ましてこの度は、涙に乾くいとまもないほど嘆き惑う心を、とても静めかねます。人に見られてもいかにもだらしがなく、意気地いくじ がないように思われそうで、院などへも、とても参上いたすことが出来ません。ことのおついでに、どうか、そのようなわけを奏上して、お取りなし下さいまし。余命幾ばくもない老いの果てに、子に先立たれ捨てられたのが、まことに辛くてなりません」
と、無理に気を静めておっしゃる御様子が、とてもお苦しそうでした。
源氏の君も、らびたび涙につまる鼻をかまれて、
おく れたり先だったりする人の命の定めなさは、世のならいとは言いながら、さしあたってわが身の上にそれがおこった心の惑乱は、たとえようもありません。院にもこの御様子を奏上いたしましたら、御推量下さいますことでしょう」
と、申し上げます。左大臣は、
「それでは、時雨も止む間もなく降りつづきそうですから、暮れないうちに」
と、おせかせ申し上げます。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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