〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/17 (日) 

葵 (十四)

源氏の君は、若君のお眼もとの愛らしさなどが、東宮にそっくりでいらっしゃるのを御覧になろましても、まっさきに東宮を思い出されて、恋しさに耐えられんくなり参内なさろうとして、御病人の部屋を訪ねました。
「宮中にもあまり長く参っておりませんので、気がかりですから、今日は久々で出かけようかと思います。それにしても、もっとあなたの近くに寄って打ち解けてお話したいものですね。これではあんまり水くさいお扱いで」
と、恨み言をおしゃいますので、女房たちは、
「ほんとうに仰せの通りですとも。御夫婦の仲は、ただとり澄まして気取ってばかりいればよいというものではございませんわ。御病気でひどくおやつれではいらっしゃいますけれど、物越しでお逢いになるなんて、とんでもございません」
と、申し上げて、几帳の中の葵の上の御病床近くへお座席を設けましたので、源氏の君はそこへお入りになってお話などなさいました。
葵の上は、お返事は時々なさるのですけれど、やはりまだ、たいそう弱々しい御様子です。けれども、もう助かるまいと、すっかりあきらめきっていた、あの頃の御様子をお思い出しになると、夢のようなお気持がします。御危篤だった時のことなどもお話しなさるにつけて、もう、まるで息も絶えたようでいらっしゃったのが、ふいに様子がうって変わって、生霊が縷々るる とものを言ったことなど、思い出されるだけでも気味が悪く、
「いやもう、お話したいことはいっぱいあるのですが、まだいかにも大儀そうにしていらっしゃるようですから」
と、おっしゃって、
「さあ、お薬湯をお上がりなさい」
などと、そんなことまでお世話をお焼きになりますので、いつの間にそんなお世話をお覚えになったのだろうと、女房たちはすかり感心しきっています。
たいそう美しい人が、ひどくやつれきって、あるかないかの心細い御様子でうち臥していらっしゃるさまは、世にも愛らしくいたいたしいものでした。お髪は一本の乱れもなく整えられて、はらはらと枕の上にかかっている風情など、この世にまたとないまでに美しく見えますので、長い歳月、この方のどこに不足があると思っていたのだろうと、我ながら不思議なほど、じっと葵の上のお顔を見つめたいらっしゃいます。
「院の御所にお伺いして、早々に退出して来ましょう。こんなふうにいつも何の隔てもなくお目にかかれたら嬉しいけれど、大宮がいつもつききりでいらっしゃるので、わたしが来るのは不躾ぶしつけ かと遠慮していたのがが、それは辛かったですよ。やはりだんだん元気をお出しになって、いつものお部屋に早く戻って下さい。一つにはあまり大宮が子供扱いをなさるので、快復がおそいのですよ」
などと、言っておいて、たいそう美々しく装束をおつけになって、お出かけになりますのを、葵の上はいつもとは違って、思いのこもったお目をじっとそそいでお見送りしながら、うち臥していらっしゃいます。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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