葵
(十三) | あの六条の御息所は、こういう左大臣家の御様子をお聞きになるにつけても、お心がおだやかではありません。前にはお命も危ないような噂だったのに、よくもまあ御安産だとは、と、複雑なお気持です。不思議な自分でもわけのわからない、正気の抜けたような夢うつつともはっきりしない気分の後を、じっとたどってみられますと、お召物などにも、祈祷の護摩
に焚た く芥子けし
の匂いがありありと染み込んでいるではありませんか。不気味の思われて、お髪をお洗いになり、お召物などをすっかりお着替えになって、匂いが消えるかと試されましたが、相変らず芥子の匂いはしつこく体に染み付き、消えてはいません。やはり夢に見たと思ったことは真実だったのかと、そんなわが身が、われながらうとなしく思われます。まして、このことを知ったら世間の人が何と思い、どんな噂をするだろうかなどと、誰にも言えないことなので、御自分のお心ひとつにこの秘密をおさめて悲しみ悩んでいらっしゃる間に、ますますおお心が錯乱さくらん
していらっしゃるようでした。 源氏の君は、御安産に少しは気分がお楽になられて、あの時の何ともいいようもなく浅ましかった生霊いきりょう
の問わず語りを、厭いと わしくお思い出しになられるのでした。それにつけても御息所をお訪ねしなくなって、ずいぶん日数が経っていることも心苦しく、けれどもまた、御息所に近々とお逢いするのもお気が進みません。 「お逢いしてもどんなものだろう、もっと厭な気持になるに違いないから、かえって御息所のためにもいっそうお気の毒なことになりはしないか」 など、あれこれと思い悩まれて、お手紙だけを差し上げていらっしゃいました。 重くお患いになられた葵の上の病後がまだ気がかりで、左大臣家ではどなたも油断はせず、まだ緊張は解けないように見えますので、源氏の君も当然ながら、お忍び歩きもなさいません。 葵の上はやはり今も、お苦しそうにばかりいていらっしゃいますので、源氏の君も、常のようにはまだお逢いにはなりません。 若君の恐ろしいほど美しく見える御様子を、今のうちから源氏の君が特別にご寵愛なさって、大切にお世話なさいますのは一通りではありません。 左大臣も願い事がすべて叶ったように嬉しく御満足で、この上なく有り難いことと思っていらっしゃいますが、それにつけてもまだ、葵の上の御容態がすっかり快よ
くはおなりにならないのを、不安に思われます。けれどもあれほどの大病をなさった後のことなので、ご快復も遅いのだろうと、それほどには御心配ばかりもしていらっしゃいません。 |
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