〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/16 (土) 

葵 (十二)

葵の上があまりに烈しくお泣きになるので、それは、悲嘆にくれていらっしゃるおいたわしい御両親のことをお案じになったり、また、こうして自分と顔を合わせるにつけても、この世の名残が惜しまれて、こうして悲しまれるのだろうかと、葵の上のお心のうちを思いやられて、
「何事も、そんなに深く思いつめないで下さい。きっと、御病気もそれほど大したことではなく、すぐよくなりますとも。たとえどんなことがあっても、夫婦は必ずふたたび逢える時があると言いますから、わたしたちはきっとまた、お逢いできるのですよ。父大臣や母宮など、前世からの深い縁のある仲は、いくら輪廻転生りんねてんしょうを重ねても、縁は切れず、必ずふたたびお逢いできる時があるとお信じなさい」
と、お慰めになりますと、
「いえいえ、違うのです。わたしの身がたまらなく苦しいので、少し調伏ちょうぶく をゆるめて楽にしていただくて、それをお願いしたくてお呼びしたのです。こちらへこうして迷って来ようなどとは、さらさら思ってもおりませんのに、物を思いつめる人の魂は、ほんとうに、こんなふうにわが身からさまよい出るものなのですね」
と、さもなつかしそうに言って、
嘆きわび 空に乱るる わがたま を 結びとどめよ たがひのつま
(嘆きに耐えかね身を離れ 空にさ迷い漂っている わたしの魂をあなたよ 下前のつま を結びしっかりと つなぎ止めてほしいもの)

と、おっしゃる声音や御様子は、全く葵の上とは似ても似つかぬ別人でした。これは一体どうしたことかと、源氏の君が不思議に思いながら色々考え、見直されますと、それはまさしく、あの御息所そのままのお姿なのでした。あまりの浅ましさに呆れ果てて、源氏の君はこれまで人がとやかく噂していたのを、つまらぬ者たちの言いたてることで聞くに堪えないと、相手にもせず、そんな噂を否定しつづけていらっしゃったのに、今、目の前にさまざまとそれを御覧になっては、世の中には、ほんとうにこんなこともあるものなのかと、不気味で御息所を疎ましくなられるのでした。つくづく、ああ嫌なことだとお思いになられて、
「そうおっしゃっても、わたしにはどなたかわかりません。はっきりお名乗り下さい」
と、おっしゃいますと、いっそうまぎれもなく御息所そっくりの御様子になりますので、浅ましいどころの話ではありません。女房たちがお側へ近づくのさえ、体裁が悪く恥ずかしくお思いになります。
少し御病人の声が静まったので、いくらか楽になられたのかと、母宮がお薬湯やくとう を持ってお側へよっていらっしゃいました。女房たちが、女君を抱きかかえ起しますと、ほどなくお生まれになりました。どなたも限りなくお喜びになられましたが、憑坐よりまし に乗り移らせた物の怪どもが、お産をねた ましがってののし りわめいている有り様は、ほんとうに騒々しくて、後産あとざん のことが、またとても心配でなりません。言葉に言い尽くせないほどのがん を、たくさん立たせなさったお蔭でしょうか、後産も無事に終りましたので、比叡山の天台座主ざす をはじめ、名高い高僧たちが、加持のげん にさも得意顔で汗をおし拭いながら、急いで退出しなした。
多くの人々が心の限り気を揉んで看病した幾日かの、緊張の名残も少しはとけてほっとしながら、もいこれで大丈夫だろうとお思いになります。御修法みずほう などは、またまた新しく加えて引きつづき始められましたが、まずさしあたっては、楽しいやら珍しいやらの御子みこ のお世話で、どなたも皆のどかに心を和めていらっしゃいます。
桐壺院をはじめ、親王みこ たち、上達部など、一人残らずお贈になられた産養うぶやしな いのお祝いの品々が、いかにも珍しく立派なのを、祝宴の夜毎に見ては、人々は騒ぎ立てています。しかも男のお子でしたから、産養いの儀式は、いっそう華やかに賑々にぎにぎ しく、おめでたく行われたのでした。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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