〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/16 (土) 

葵 (十一)

まだ御出産の時期ではないからと、左大臣家では、どなたも油断していらっしゃいましたところ、葵の上は、にわかに産気づかれてお苦しみになりますので、これまでにもまいて効験のある御祈祷の限りを尽くさせられました。ところが例の執念深い物の怪がひとつだけ、どうしても取り憑いて動かず、霊験あらたかな験者けんじゃ どもも、こんなことは只事ではないと、もれあましています。それでもさすがに調伏ちょうぶく されて、物の怪がさも辛そうに痛々しげに泣き悶えて、
「少し御祈祷をゆるめて下さい。源氏の大将に申し上げたいことがあります」
と、言います。女房たちは、
「やっぱりだわ、何かわけがあるのでしょうよ」
と、葵の上のおそばの几帳の陰に、源氏の君をお入れしました。葵の上は、もう御臨終のような御容態なので、源氏の君に遺言でもなさりたいことがおありなのだろうかと、左大臣も母宮も、少し座をお外しになりました。僧たちも加持をやめて、声を低めて法華経を読むのが、この上なく貴く聞こえます。
源氏の君が、几帳の帷子かたびら を引きあげて御覧になりますと、葵の上はたいそうお美しいまま、御腹だけはひどく高くふくれて臥していらっしゃいます。他人でさえもこのお姿を拝見したら、おいたわしくて気もそぞろになることでしょう。まして夫の源氏の君には、葵の上のお命が惜しまれ、前後の境もなく悲嘆にくれていらっしゃるのも道理でございます。
葵の上は白いお召物に、真っ黒なおぐし がとても鮮やかに映えて、非常に長くて豊かなお髪をひき束ね結ばれ、お体のわきに添えてあります。こんなふうに、つくろわないでありのままにしていらっしゃってこそ、可愛らしさもなまめかしさも加わって、魅了のあるお方なのにと、お思いになります。
源氏の君は、葵の上のお手をとられて、
「ああ、あんまりな、このわたしに何という辛い思いをおさせになるのですか」
と、後は言葉もつづかず、よよとお泣きになります。葵の上は、いつもはとても気づまりで近寄りにくい御眼差しなのに、今はさもけだるそうに開いて、源氏の君のお顔を見上げ、じっと見つめていらしゃるのです。そのお目からみるみる涙がほろほろとこぼれ落ちます。それをご覧になった源氏の君が、どうして心からいとおしくお思いにならないことがございましょう。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next