〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/16 (土) 

葵 (十)

源氏の君のお返事は、すっかり暗くなってからまいりました。
「あなたの袖ばかり濡れるとは、どういうことでしょう。それこそ、あなたの愛情が深くないからではございませんか」
浅みにや 人はおり立つ わがかた は 身もそほつまで 深き恋路を
(あなたは浅い恋路に立って いらっしゃるのか わたしは身も濡れそぼつまで 深い恋路に踏みこんで おりますのに)

「きょくよくのことがなければ、自分でお訪ねもせず、返事を直接申し上げないことがありましょうか。実は病人が重態なのです」
などと書かれています。
左大臣家では、葵の上にもの がさかんに現れて、その度、御病人はたいそうお苦しみになります。
六条の御息所は、それを御自身の生霊いきりょう とか、亡き父大臣の死霊しりょう などと、噂している者があるとお聞きになるにつけて、あれこれと考えつづけてごらんになります。いつでも自分ひとりの不幸を嘆くばかりでそれよりほかに他人ひと の身の上を悪くなれなど、呪う心はさらさらなかった。けれども人はあまり悩みつづけると自分で知らない間に、魂が体から抜け出してさ迷い離れていくと言われているから、もしかしたら自分にもそういうこともあってあの方にとり憑いていたのかも知れないと、思い当てる節もあるのでした。
「この長い年月、悲しい心労の限りを味わい尽くしてきたけれど、こんなに心も砕かれるほど苦しく悩んだことはなかった。それなのに、あの御禊の日のつまらない車争いの時、あの人から侮辱され、ないがしろに扱われたと思って以来、そのことばかりを一途いちず に考えつづけ、口惜しさのあまり理性を失い浮き漂うような心を、どうしず めようもなかった。少しでもうつらうつら、うたた寝をすると、夢の中にあの葵の上と思われる人が、たいそう美しい姿でいらっしゃるところへ自分が出かけて行って、その人の髪をつか んであちらこちらと引きずり回したり、正気の時には思いもよらないほどの、はげ しく猛々しいひたむきな激情が、猛然と湧きあがってきて止めようもなく、その人を荒々しく打ち叩いたりするのを、ありありと見ることが幾度となくあった。ああ、浅ましい。ほんとうに自分の魂がこの身を捨てて抜け出して行ったのだろうか」
と、正気を失ったようにお感じになる折々もありました。
「それほどのことではなくても、他人のことは、よいようには言わないのが世間なのに、ましてこれは、どんなふうにでも噂を立てられていい材料なのだから」
と、お考えになりますと、いかにも悪い評判になりそうに思われます。
「一途に思いつめて死んでしまったから後に、人の魂が怨霊になるのは、世間によく例のあること。けれどもそれさえ、他人のこととして聞いていた場合は、罪障の深い、気味の悪いことだと思われるのに、現に生きているままのこのわたしが、そんなうと ましい噂をたてられるとは、何という宿縁しゅくえん の情けなさか。もうもう一切、あの薄情な源氏の君のことなど、どうであっても、心にかけないでおこう」
と、御息所は思い直しはなさるのですが、その思うまいと思うことが、すでに物を思っていることなのです。

 
斎宮は、去年、宮中の初斎院しょさいいん にお入りになる筈でしたが、いろいろなおさしつかえがあって今年の秋にお入りになります。九月には、そのまま宮中からみや にお移りないなる御予定なので、二度目の御禊のお支度も、引きつづいてなさらなければなりません。ところが母君の御息所が、この頃ただもう妙にぼんやりとして正体も気力も失い、物淋しそうに寝込んでおしまいになりましたので、斎宮にお仕えする人々は、一大事とばかり心配して、御祈祷など、さまざまにとり行っております。
御息所はそれほどひどく苦しまれると」いうほどの重態ではなく、どこがお悪いということもなく、なんとなくお具合がすっきりなさらず、月日をお過ごしになっていらっしゃいます。
源氏の君も始終お見舞い申し上げるのですが、もっともっと大切な葵の上の御病気が重いので、お心の休まる暇もないようでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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