〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/16 (土) 

葵 (九)

御息所は、こうした御憂悶が原因で沈んでばかりいらっしゃり、御気分がどうしてもすっきりなさらないように思われますので、他所よそ にお移りになって、御修法などをおさせになります。
源氏の君はそれをお聞きになって、どんな御容態かとおいたわしくお思いになり、ようよう気持を引き立ててお見舞いにいらっしゃいました。
いつもお通いの六条のお邸とは違う仮住まいのお宿にいらっしゃるので、源氏の君はいっそう人目を忍んでお越しになります。心ならずもご無沙汰していることを、きっと許して下さるようにと、しみじみと細やかにお話になります。葵の上の御容態についても、不安なお気持を打ち明けてお話になるのでした。
「わたしは、それほど心配してもおりませんが、あちらの親たちが実に大袈裟おおげさ に心配しまして、せめてこういう時は外出を控えて、病人の側についていてやりたいと思いまして、何事もどうかおおらかなお心でおゆるし下さるなら、どんなに嬉しいことでしょう」
としみじみお話になります。
いつもよりお辛さそうに見える御息所の御様子を、無理もないことと、源氏の君はおいたわしく御覧になるのでした。
御息所のお心の打ち解けないまま、お互いしっくりしない一夜が明けました。
朝ぼらけの中をお帰りになる源氏の君のお姿のすばらしさを御覧になるにつけ、やはり未練が出て、御息所はこの方を振り切って遠くに離れ去るのはやめようかしらと、お迷いになります。
「もともと疎略には扱えない正妻に、今度はいよいよ愛情が深まらずにはいられない可愛いお子までがお出来になったのだから、源氏の君のお気持は、いよいよ葵の上お一人に落ち着かれるだろう。それなのにこんなふうに、たまさかのお越しをお待ちしつづけながら日を過ごすのも、いっそう苦悩がつのるばかりにちがいない」
と、御息所はお考えになりますと、かえって源氏の君の訪れのために、日頃の鬱屈した悩みがよび覚まされたようなお気持がなさいます。そんなところへ君のお手紙だけが、夕方になって届けられたのでした。
「この頃、少しはおさまっていました病人の容態が、また急にたいそう悪くなって、苦しがっておりますので、目を離しかねて」
と、書かれているのを、どうせいつもの口実だと御覧になりながらも、

袖ぬるる 恋路こひぢ とかつは 知りながら おりたつ田子たご の みずからぞ憂き
(涙で袖を濡らすばかりの 辛い恋路と知りながら こひじ に踏みこむ農夫のように われから恋の闇路に踏み迷う この身の愚かさ情けなさ)

「<山の井の水> の歌のように、あなたの浅い愛情のせいで袖ばかり涙で濡れるのも、もっともと思います」
と、御息所はお返事をお書きになります。
そのお筆跡を、源氏の君は、さすが大勢の女君の中でも、とりわけすぐれていると御覧になるのでした。
「全く何という不可解な世の中なのだろう。心も顔も人それぞれに何かしら取り得があって、捨て切れはしない。かといって、この人こそわが妻にと、決めてしまいたいほどの人もないのが、苦しいとは」
とお思いになります。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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