〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/15 (金) 

葵 (八)

左大臣家では、葵の上がもの かれたらしく、ひどくお苦しみになられますので、どなたも御心配なさっていらっしゃいます。そんな折なので、源氏の君もお忍び歩きなどはとても無理です。二条の院にさえ時たまにしかお出かけになれません。何と言っても、正式の北の方ろいう御身分上、どなたよりも大切に思っていらっしゃる葵の上の、懐妊ということに加えてのご病気ですから、源氏の君も一方ならず御心配になって、ご自分の部屋でも御修法みずほう や何やかやと、加持かじ 祈祷きとう をたくさんおさせになるのでした。
祈祷されて物の怪や生霊いきりょう などがたくさん現れてきて、さまざまに名乗りを上げます。その中に、憑坐よりまし にはどうしても乗り移らず、ただ葵の上のお体にぴたりととり憑いて、特にひどくお苦しめするのでもないのですが、やはり片時もお身を離れようとしない、しつこい怨霊おんりょう が唯一つあります。
すぐれた験者げんじゃ たちの祈祷にも調伏ちょうぶく されない執念深い様子から、余程のものと思われます。
源氏の君のお通い所の、ここかしこの女の生霊かと、左大臣家では見当をおつけになりますが、女房たちが、
「六条の御息所や二条の院の女君「などは、源氏の君が並々でなく御寵愛のようですから、こちらの北の方に対する怨み心もさぞ深いことでしょうよ」
と、ひそひそ噂していますので、左大臣家では、あれこれ占わせて御覧になりますけれど、誰の怨霊といってはっきり言い当てることもありません。
物の怪といったところで、特別に深い敵だと名乗り出る者もいないのです。亡くなった乳母めのと だった者、あるいは葵の上の御先祖に、代々たた りつづけて来た死霊などが、お体の弱り目につけ入って、出て来たものなどなかりです。とりわけ重立った怨霊もなくて、ばらばらと、とりとめもなく現れます。
葵の上は、たださめざめと声をあげてお泣きになるばかりで、時々は、胸をつまらせて、たまらなく苦しそうにもだ えたりなさるので、一体、どうなられることかと、恐ろしくもあれば悲しくもあり、左大臣家ではどなたも皆、狼狽ろうばい しきっていらっしゃいます。
桐壺院からもしきりにお見舞いがありまして、御祈祷のことまで御心配して下さる御様子が、畏れ多いのにつけましても、いっそう惜しまれる葵の上のお身の上なのでした。
世の中の人々が、こぞって、葵の上のお命を惜しんでいるとの噂をお聞きになるにつけても、六条の御息所はお心おだやかではありません。これまでの長い年月の間は、それほど激しくはなかった競争心なのに、あの日のほんのちょっとしたはずみで起こった車争いのため、御息所のお心に怨念がきざしたのです。それなのに左大臣家ではあの一件を、それほどまでのじゅうだいじとは、思いもよらないのでした。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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