〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/15 (金) 

葵 (六)

今日も見物の車が隙間もなくびっしりと立て込んでいます。馬場の殿舎のあたりで、車の立て場に困って、
「ここは上達部の車が多くて、騒々しい所だね」
と、源氏の君がためらっていらっしゃると、かなり上等の女車に、たくさんの女房たちが乗り込み、袖口などが派手にこぼれて出ている中から、扇をさし出して、源氏の君のお供を招き寄せる者がいます。
「こちらにお車を止められませんか。場所をお譲りいたしましょう」
と、その女は申し上げるのでした。源氏の君は、どういう色好みの女だろうかと興味をそそられ、場所もとてもいい所だったので、御自分の車をそこへお近づけになられました。
「どうしてこんないい場所をお手に入れられたのですか、羨ましいことです」
と、言っておやりになりますと、しゃれた檜扇ひおうぎ の端を折って、
はかなしや 人のかざせる あふひゆゑ 神のゆるしの けふを待ちける
(人のものになった あなたとも知らず 今日の葵祭こそ 神に許され逢える日と 待ちかねていたはまなさよ)
注連しめ をはったようなお車の中には、入っていかれませんわ」
と書いてある字を御覧になりますと、あの色好みの典侍ないしのすけ なのでした。何と呆れたものだ。年甲斐もなく、いつまで若やいでいるのかと、憎らしくなり、そっけなく、
かざしける 心をあだに 思ほゆる 八十やそ 氏人うぢびと に なべてあふひを
(葵をかざし逢瀬の今日を 待っていたあなたの心こそ はかないものを 今日は誰と逢ってもいい 葵祭なのだもの)
と、返しをされました。女はずいぶんお言葉だと、恨めしく思いながらも、
口惜くや しくも かざしけるかな 名のみして 人だの めなる 草葉ばかりを
(逢いたいばかりに 葵をかざしたりして 逢う日だなんて名ばかりの 草の葉にすぎないのに 葵だなんてええ口惜しい)
と、お返ししました。
源氏の君が、誰か女の人と相乗りして、車の簾さえ巻き上げないでいらっしゃるのを、ねた ましく思う女たちが多いのでした。
御禊ごけい の儀式の日には、威儀を正してずいぶん御立派だったけれど、今日はまた、すっかりくつろいだ御様子でお出かけなさっていらっしゃること、一体誰なのかしら、お車の中のひと は、相乗りするほどですもの、相当のお方なのでしょうね」
など、人々は当て推量しています。
「張り合いのない歌のやりとりをしたものだ」
と、源氏の君はつまらなく馬鹿げたことをしたとお思いになりますが、源の典侍のように厚かましくない人だったら、源氏の君が誰かと相乗りされていらっしゃるのに気おくれがして、たとえその場限りの御返歌でも、気安く申し上げるのも、面映いことでしょう。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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