〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/14 (木) 

葵 (五)

祭の日は、左大臣家では御見物なさいません。あの御車の場所争いの一件を、逐一お耳に入れた者がありましたので、源氏の君は、御息所に対してほんとうにお気の毒で、葵の上には情けないことをしてくれたとお思いになりました。
「葵の上は、重々しく落ち着いているが、惜しいことに、やはり何分にもじょう がうすく、そっけないところがおありなので、自分では、それほどひどいことをするつもりもなかったのだろう。大体こういう間柄の女どうしは、お互いにやさしい思いやりを交しあうべきなのに、葵の上はしこまで気がつかない。その気質を見習って、次々と下々の家来までが、不心得にあんな狼藉ろうぜき を働いてしまったのだろう。六条の御息所はお心づかいが奥ゆかしく、こちらが恥ずかしいほどたしな み深いお人柄なのに、そんなひどい屈辱を受けられ、どんなにか惨めな情けない思いに沈んでいらっしゃることだろう」
と、お気の毒でたまらず、御息所の邸をお訪ねになりました。
そこにはまだ斎宮がいらっしゃって、邸の四方に木綿ゆう をつけたさかき が立ててありますので、その榊に対してもはばか りがあるというのを口実に、御息所は心安くは逢おうとなさいません。源氏の君は、無理もないこととはお思いになるものの、
「どうして、こうもよそよそしくなさるのだろう。もっとお互いに角立たないようにしてもいいだろうに」
と、つぶやいておしましになるのでした。
その日は二条の院に源氏の君はひとりでお帰りになられ、祭見物にお出かけになります。
西のたい にお越しになり、惟光これみつ に車の用意をお命じになります。若紫の姫君にお仕えしている女童めのわらわ たちを、わざと大人扱いにして、
「女房たちも出かけますか」
など冗談をおっしゃって、姫君がそれは可愛らしく着飾っておめかししていらっしゃるのを、ほほ笑みながら御覧になるのでした。
「さあ、いらっしゃい。一緒に見物に行きましょうね」
と、姫君のおぐし がいつもより清らかに見えるのを撫でられて、
「長いことおぐし をお ぎにならないようですけれど、今日は髪を削いでもいい吉日だったかな」
と、こよみ博士はかせ をお召しになって、髪を切るのに縁起のいい時刻を、お調べさせになる間に、
「まず女房たちがお出かけなさい」
と、おっしゃって、女童たちが綺麗に着飾っているのを御覧になります。どの子も可愛らしく髪の裾をはなやかに切り揃えて、もんうえ の袴に、その髪がかかっているのが、くっきりと鮮やかに見えます。
「あなたのおぐし は、わたしが切り揃えてあげましょう」
と、源氏の君は切りはじめられましたが、
「これは、うっとうしいほど多いお髪だ。今にどれほど長くなることやら」
と、切りあぐねていらっしゃいます。
「どんなに髪の長い人でも、額の生え際の髪は、いくらか短いものなのに、あなたのようにまったくおく がないというのも、あまり風情がなさすぎはしないかな」
とおっしゃりながら、それでもすっかり切り揃えられて、 「千尋ちひろ 」 と祝いの言葉をおっしゃるのを、乳母めのと少納言しょうなごん は、しみじみ有り難いことだと嬉しく拝見しています。
はかりなき 千尋の底の 海松房みるぶさ の おひゆくすゑ は 我のみぞ見む
(底知れぬ深い千尋の 海底の海松のように 美しく髪が伸びていく あなたの未来は わたしひとりがお世話しましょう)
と、源氏の君が祝いの歌をおっしゃいますと、
千尋とも いかでか知らむ 定めなく 満ちしほ の のどけからぬに
(愛情は千尋の海のように 深いとおっしゃっても どうしてわかるかしら 満ち干する潮のように 歩き廻っておいでなのに)
と、紙に書き付けていらっしゃry若紫の姫君の御様子は、いかにも歌は才気走って上手そうに見えるものの、御本人はまだ子供らしく可愛らしいノの、源氏の君は末楽しみなことだとお思いになるのでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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