葵
(一) | 桐壺の帝
が御譲位あそばされて、御世みよ
が替りましてからは、源氏の君は、すべてのことが憂く、億劫になられた上に、大将に昇進され、御身分も重々しさを加えられたためjか、軽々しいお忍び歩きも憚はばか
られるようになりました。あちらにもこちらにも、ひたすら君をお待ちしている女君たちは、なかなかお逢い出来ない悲しさに苦しんでいらっしゃるのでした。 その報いなのか、源氏の君は、相変らず、御自分にはつれないあの藤壺ふじつぼ
の中宮ちゅうぐう のお心を、限りも泣く嘆きつづけていらっしゃるのでした。 桐壺の院は、御退位後の今では、前にも増してまるで世間の夫婦のように、いつも藤壺の中宮とおふたり寄り添われ、お睦まじくお暮らしになっていらっしゃいます。 新帝の御母なので今度皇太后になられた、弘徽殿こきでん
の大后おおきさき には、そうしたことがお気に障られるのか、宮中にばかりずっとおいでになります。 そのため院の御所では、もはや藤壺の中宮と肩を並べる人もなくなり、中宮はお心ものどかそうでした。 何かの折節につけては、桐壺院は管絃の御遊びなどを、すばらしさが世間に響き渡るほど華やかにお催しになられて、御在位中よりも、かえって今のお暮らしの方が結構なようにお見受けいたします。 ただ、桐壺院は宮中に別れてお暮らしの東宮だけを、たいそう恋しく思し召されていらっしゃいます。東宮の御後見おんうしろみ
のないのを、気がかりにお案じ遊ばされて、源氏の大将に、東宮については万事御依頼なさいます。源氏の君は、内心忸怩じくじ
たるものがおありななりながらも、やはり嬉しくもお思いになるのでした。 それはそうと、あの六条ろくじょう
の御息所みやすどころ と、前さき
の東宮との間にお生まれになった姫宮が、この御代替わりで、伊勢の斎宮さいぐう
にお決まりになられました。御息所は源氏の君のお心が一向に頼りにならないので、幼い姫宮のお身が心許こころもと
ないという理由にかこつけて、この際、自分も御一緒に伊勢に下ってしまおうかと、かねがねお考えになっていらっしゃいました。 院も、六条の御息所に、こうした事情のあることをお耳にあそばされて、 「御息所は、亡き東宮が、たいそう大切にして御寵愛ごちょうあい
なさったお方なのに、そなたは軽々しく並々の女のように、お扱いしているらしいが、ほんとうにおいたわしいことだ。わたしは斎宮なども、自分の姫宮たちと同様に思っているのだから、どちらからいっても、御息所を疎略に扱ってはならない。気ままに勝手放題にして、こんなふうに浮気をしていては、そのうちきっと、世間の非難を存分に受けることになるだろうよ」 などとお叱りになって、ご機嫌がお悪うございます。源氏の君は御自分でも、まことにその通りだとわかっていらっしゃるので、恐縮しきって控えていらっしゃいます。 「女に対しては、相手に恥をかかせないようにして、どの女たちも傷つけぬように公平に穏やかに扱って、女の恨みを負うてはならない」 と、院がおさとしなさるにつけても、源氏の君は、不届き至極な大それた、あの恋の秘密を、もし、院がお耳になされたならと、空恐ろしさにいっそう恐懼きょうく
しきって、御前を退出なさいました。 こんなふうに、院のお耳にまで入り、お咎とが
めを受けるにつけても、六条の御息所の御名誉のためにも、御自分にとっても、このままでは、いかにも好色がましく御息所にもお気の毒なので、いよいよ御息所を大切にお世話しなければと、申し訳なくお思いになります。けれどもまだ、表立っては特にこれという公然としたお扱いも、しておあげになりません。 御息所も、不似合いなお年の差をきまりわるく気がねなさって、すっかりお心をお許しにはならない御様子なので、源氏の君はそれを好都合にして、いかにも遠慮しているかのように装っていらっしゃったのです。こうして、ふたりの仲が院のお耳にも入ってしまい、世間の人も誰知らぬ者はないまでになってしまったのに、源氏の君は一向に深くも思って下さいません。そのお心の情つれ
なさを、御息所はつくづくお嘆きになるのでした。 そうした噂をお聞きになるにつけても、あの朝顔の歌を源氏の君がお送りになった、式部卿しきぶきょう
の宮の姫君は、どうしても六条の御息所の二の舞はしたくないと、しっかりと決心していらっしゃいます。 これまでは形ばかりはされていたお手紙のお返事なども、ふっつりとなさらなくなりました。かといって、あまりに無愛想にしたり、気まずい思いをおさせするような扱いはなあらない御様子なので、源氏の君は、やはりこの方はどこか人と違ってすぐれていられると、いつもお思いになっていらっしゃいます。 左大臣家の女君葵あおい
の上うえ は、こんなふうに移り気な源氏の君のお心を、面白くなくお思いになるのですけれど、あまりにも憚はばか
りのない大っぴらななさり方なので、お話にもならないとあきらめていらっしゃるからでしょうか、それほど深くもおうらみにお怨みになりません。葵の上はこの頃、御懐妊のため、悪阻つわり
でおいたわしくお苦しみになられ、何となくお心細そうにしていらっしゃいます。 源氏の君はそんな葵の上を珍しく、いとおしいとお思いになっていたっしゃいます。 左大臣家ではどなたもどなたも、御懐妊が嬉しいので、一大事にお思いになって、安産のために、ありとあらゆる祈祷きとう
や物忌ものい みをおさせになります。こんなふうな間は、源氏の君も、いよいよお心のゆとりがなくて、なおざりにするおつもりではないのですけれど、自然、御息所などにも、御無沙汰かちになるようでした。
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