その時、たいそう若々しい美しい声の、並の女房とも思われない女
が、 「朧月夜おぼろづきよに似るものぞなき」 と、口ずさみながら、奥の枢戸からこちらの方に来るではありませんか。源氏の君はすっかり嬉しくなり、とっさにその女の袖を、とらえてしまいました。 女は、さも恐ろしそうに、 「まあ、気味が悪い。いったいだれ」 と、言いますが、源氏の君は、 「何もそんなに怖がることはありません」 と、仰せになって、 |
深き夜の
あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ ( 夜深く山の端に入る 朧月の美しさに惹かれ 歌っているあなたに
出逢えたのも前さき の世の 並々ならぬ約束でしょう) |
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と詠み、そうっと弘徽殿の廂ひさし
の間ま へ抱き下して、戸を閉めてしまいました。 あまりのことに、茫然ぼうぜん
としている女の様子が、とても可憐で人なつこく見えます。女は怖さにおののきながら、 「ここに、人が」 と、言うのですが、 「わたしは何をしても誰からもとがめられないから、人をお呼びになっても何にもなりませんよ。そっと静かにしていらっしゃい」 と、おっしゃるお声に、女は、さては源氏の君であったのかと聞き分けて、少しはほっとするのでした。あんまりだとは思うものの、恋の情緒も分からぬ情じょう
のこわい女だと、源氏の君に思われたくもありません。 源氏の君は常にもなく深酔いしていたのでしょうか。このまま女を放してしまうのはいかにも惜しい上に、女も初々ういうい
しくなよやかで、手きびしく拒み通すすべも知らないのでしょう。源氏の君は、そんな女をしみじみ可愛いとお思いになって愛撫を尽くしているうちに、間もなく夜も明けそめてきましたので、心もせかされます。まして女は、こんなことによって千々に思い乱れている様子です。 「お願いだからやはり、どなたか教えて下さい。お名前も知らないのでは、お便りのしようがありません。まさかこれっきりにしようなんて、思ってはいらっしゃらないでしょうね」 と、源氏の君がおっしゃいますと、 |
うき身世に
やがて消えなば 尋ねても 草の原をば 問はじとや思ふ (名前を告げないと もしわたくしがこのまま はかなく死ねばあなたは
草原の中を探しても 墓を訪と
うては下さらないの) |
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と、言う女の様子が、優雅になまめいているのでした。 「なるほど、これはわたしの落ち度でしたね」 と、源氏の君はおっしゃって、 |
いづれぞと
露のやどりを 分かむまに 小笹が原に 風もこそ吹け (捜しても名前も知らず どこのどなたと分からぬうちに ふたりの仲がもれ聞こえ
噂の種になったら さぞかしうるさいことだろう) |
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「御迷惑にお思いでないなら、どうしてわたしが遠慮するでしょう。もしかしてわたしをお騙だま
しになるおつもりでしょうか」 と言いおわらないうちに、女房たちが起きだしてざわめいてきました。 上の御局に、弘徽殿の女御をお迎えに行ったり帰ったりする女房たちの気配が、忙しそうにしてきましたので、ひどく困って今はもうこれまでと、ふたりの扇だけを、逢った証拠に交換し合って、源氏の君は、そこを出ておしまいになりました。
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