〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2016/01/06 (水) 

紅 葉 賀 (十三)

このげん の典侍がある日、帝の御髪上みぐしあ げに伺候していましたが、それが終ったので、帝は御装束の係りの女房を召して、お召替えにその場から出ていらっしゃいました。その後には、ほかに人も居なくて、この典侍だけが残っていました。この日典侍はいつもよりさっぱりとして、姿つきや髪かたちもなまめかしくて、衣裳や着こなしもたいそう華やかにしゃれて見えるのでした。
源氏の君はそんな典侍を御覧になって、何と若作りなと、苦々しく思われながらも、いったいどんな気でいるのかと、やはり素通りもなさいにくくて、典侍のすそ をちょっとひっぱって、注意を引いてごらんになりました。たいそう鮮やかに絵を描いた扇をかざいて、見返った典侍の眼差まなざ しは、思い入れたっぷりの流し目ですか、まぶた がひどく黒ずみ落ち窪んで、扇で隠しきれない髪の毛なども、すっかりそそけているのでした。年に似合わぬ派手な扇を持っていることよとお思いになって、御自分の扇と取り換えて御覧になりますと、赤い紙が顔に映るくらい濃艶なのに、小高い森の絵を金泥で塗りつぶしてあります。その端に、筆跡はたいそう古風ですが、なかなかの達筆で、<森の下草老いぬれば> など書き流してあります。書くにこと欠いて、年寄りに男が寄り付かないなど、何とまあ、いやらしい歌を選んだものだと、苦笑なさりながら、
「<森こそ夏の宿りなるらめ> という歌のようにあなたのところには宿る人が多いというわけですね」
tp、何かとお戯れに話されるのも、相手が不似合いで体裁が悪く、人に見られはしないかと、気になさるけれど、女はいっこうに頓着とんちゃく せず、
君し手馴てな れの駒に 刈り飼はむ さかり過ぎたる 下葉なりとも
(あなたがおいでになれば お召し馴れの馬のために 草を刈り御馳走します 盛りを過ぎた下草ですが 若くないわたしもともに)
と言う様子が、この上もなく色っぽいのです。
笹分けば 人やとがめむ いつとなく 駒なつくめる森の木がくれ
(森の木がくれの笹を 踏み分けて訪ねたら 咎められはしないか いつでも大勢の男があなたを 慕い集まっているのに)

「厄介なことになりそうで」
と、お立ちになるお袖をとらえて、
「まだこんなつらい物思いをしたことはございません。今更になってあなた様に捨てられてはいい恥さらしでございます」
と言って泣く様子がとても大げさなのでした。源氏の君は、
「そのうち便りをしますよ。いつもあなたを思っているのだけれど」
と、袖を振り払って出ようとなさいますのを、典侍は懸命にとりすがって、
橋柱はしばしら
と怨めしそうに言い浴びせますのは、<津の国の長柄ながら の橋柱 りぬる身こそ悲しかりけれ> の、橋柱の五文字なのでしょう。
帝はお召替えをしませてお障子の隙間からすべてを覗いておしまいになりました。不釣り合いな間柄だとたいそう滑稽にお感じになられて、
「女には目も向けないと、女房たちが皆心配していてようだが、やっぱりそなたのことは見過ごさなかったのだな」
とお笑いになりますと、典侍はなんとなくきまりが悪いとは思いながらも、恋しい人とのことなら、ぎぬ だって着たがるという類なのでしょうか、それほど弁解も申し上げません。
女房たちも、意外なこともあるものだと、取り沙汰するのを、頭の中将が聞きつけて、女のことにかけては抜け目なく関心を持つ性分なので、まだあの女のことは考えも及ばなかったなと思うにつけ、幾つになっても色好みの止まぬ典侍の心を試したくなりまして、とうとう情人の仲になってしまいました。
頭の中将も人よりはるかに優れていらっしゃいますので、典侍はあのつれ ない源氏の君の代わりの気晴らしにと思いましたが、ほんとうに逢いたいのは、やはり源氏の君お一人だったとか。何とまあ年甲斐もなく贅沢な好みですこと。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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