源氏の君は、この上なく美しいご器量でいらっしゃるのに、今夜はわざとお忍びらしく、地味に目立たぬように装われた御様子が、この上もなく優艶で、その美しさのわかる人にこそ見せたいものです。しかしこのあたりでは、何の見栄
えもなさらないだろうと、命婦はつくづくお気の毒に思うのでした。 ただ安心なことには、姫君が鷹揚おうよう
でいらっしゃいますから、余計な口出しはなさらないだろうと思うのでした。 自分がいつも源氏の君に責めたてられている苦しさのがれに、こうした徒あだ
な手引きをしてしまって、それが原因で姫君がこの先お悩みになるようなことが生まれはしないかと、心配になってまいります。 源氏の君は、姫君の御身分をお考えになりますと、当世風のいやに洒落た気取った女よりは、さぞかし奥ゆかしいことだろうと想像していらっしゃいます。どうやら命婦たちに無理にすすめられて、姫君がそうっとにじり出ていらっしゃるらしく、その気配がいかにももの静かで、えび香の薫りがたいそうなつかしく漂ってくるのも、さすがに鷹揚な感じがいたします。 やはり思った通りの方らしいと、源氏の君は御満足なさるのでした。長年、恋い慕ってきた胸の思いなどを、言葉巧みに如才なく、つぎからつぎへとお話なさいますけれど、手紙のお返事さえなさらない姫君は、まして直接のお答えなどは、まったくなさいません。源氏の君は、 「それにしても、こうまで黙っていらっしゃるのは何ということでしょう」 とお嘆きになります。 |
いくそたび
君がしじまに 負けぬらむ ものな言ひそと 言はぬ頼みに (幾十度あなたの無言に これまで負けてきたことか ものを言うなとも、おっしゃらないのを
せめて頼みにして) |
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「いっそ思いきれとはっきりおっしゃって下さい。玉だすきようなどっちつかずのこんな状態は苦しくてなりません」 とおっしゃいます。姫君の乳母の娘で、侍従じしゅう
というす速く気のきく若い女房が、じれったくて見ていられない気持になり、姫君のお側にさし寄って申し上げます。 |
鐘かね
つきて とぢめむことは さすがにて 答えま憂う
きぞ かつはあやなき (八講の論議の終りの鐘をつき ことばを閉じこめ有無を言わさず 縁を切るのはさすがにできず お答えできない辛さに
心ふさがるのがまた不思議) |
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と、若々しい声の、さほど重々しくはないのを、人伝ではなく姫君のお声のふりをして申します。源氏の君は、姫君の御身分にしては馴れ馴れしいとお聞きになりましたが、 「はじめてのお返事なので珍しく、お声を聞きますと、かえってわたしの方が口がきけなくなってしまいますね」 |
言わぬをも
言ふにまさると 知りながら おしこめたるは 苦しかりけり (言わぬには言うにもまさり 思いはまさると知るつつも あまりなあなたの沈黙は
やはり苦しくて たまらない) |
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それから、何やかやととりとめもないことだけれど、冗談のようにも、真剣なふうにもお話になってごらんになりますが、何の甲斐もなく、やはり姫君は無言のままです。 こんなふうに手応えの全くないのも一風変わっていて、もしかしたら他の男を愛しているのかも知れないと、源氏の君はいまいましくて、そっと襖ふすま
を押し開けて、いきなり中へお入りになってしまいました。 命婦は、 「まあ、ひどい、人に油断させておおきになって」 と、源氏の君を恨みましたが、姫君がお可哀そうなので、そのままそ知らぬ顔をして、自分の部屋へ行ってしまいました。お側にいた若い女房たちもまた、源氏の君は世にも稀なお美しいお方との噂を聞いておりますので、お咎とが
めしようともせず、大げさに嘆くことも出来ません。ただ思いもかけず、不意に起こったことなので、姫君がそんなお心用意は何もおありでなかっただろうにと、お気の毒に思っています。 姫君御自身は、ただもう、ぼうっとなさり、身の置き所もなく恥ずかしく、きまりの悪いほかはなにもお考えになれないのでした。 源氏の君は、まあ、今のうちは、こんなふうなのがおじらしいのだ。まだ全く初心うぶ
で、これまでひたすら深窓の姫君として育てられていらっしゃった方なのだけらと、大目に見てお許しになられますけれど、あまりの手応えのなさに、何となく腑に落ちかねる奇妙な感じがして、気の毒になるのでした。この人のどこにお心がひきつけられるのか。とうていお心に適うわけがなく、がっかりされ失望なさって、つい重い溜息を漏らされます。まだ夜も明けぬうちに、源氏の君はお帰りになってしまわれました。 命婦は、あれからどうなさっただろうと、眠れないまま、聞き耳を立てて寝ていましたが、知らぬふりで通そうと、 「お見送りを」 とも、女房たちに言わないでいます。 源氏の君もそっと目立たぬようにお帰りになってしまいました。 |