〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-X』 〜 〜
== 源 氏 物 語 (巻二) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/12/23 (水) 

末 摘 花 (十)

八月の二十日余りのことでした。月がなかなか昇らないので夜が更けるまでが待ち遠しく、いつになれば月が見えるかわかりません。空には星の光ばかりがきらめいて、松の梢を吹く風の音が心細く聞こえます。
そんな夜、姫君は昔のことを思い出されて、しみじみ命婦とお話になりお泣きになるのでした。命婦はちょうどよい折だと思って、お報らせしたのでしょうか、源氏の君はいつものようにたいそうお忍びでお越しになりました。
月が次第に昇り、荒れたまがき のあたりが気味悪く照らされているのを、源氏の君が眺めていらっしゃると、命婦にすすめられたのか、姫君がきん をほのかに掻き鳴らす音が伝わり、その音色はなかなかのものでした。
命婦は、もう少し馴染なじ みやすい、当世風な味わいをおつけになればいいのにと、自分の色好みの浮ついた気持からは、もの足りなく思っています。
このお邸は人目にたたない場所なので、源氏の君は何の気がねもなくお入りになられて、命婦をお呼び出しになりました。
命婦はたった今、源氏の君のお越しを知ったような驚いた顔をして、姫君に申し上げました。
「まあ、どうしましょう、ほんとうに、困りましたわ。源氏の君がお越しになったようでございます。いつも姫君のお返事がないと恨みごとをおっしゃいますのを、わたくしの一存では参りませんとばかりお断り申し上げますので、それなら御自身で直接ことを分けて姫君にお話申し上げたいと、いつもおっしゃるのでございます。何とお返事申し上げましょうか。並々の方が身軽にお出ましになったのではございませんので、そうすげなくお帰しするのもお気の毒なことですから、几帳越しにでもお話をお聞きなさいましては」
姫君はそれを聞かれて、たいそう恥ずかしがられて、
「わたしは人とお話しするすべも知らないのに」
と仰せになり、奥の方へにじり入ろうとなさる御様子が、いかにも初々しいのでした。命婦は笑いながら、
「ほんとうに子供っぽくいらっしゃるので、わたくしは心配でなりません。この上なく高貴な御身分の姫君でも、御両親が揃って御後見なさり、お世話も充分遊ばされている間なら、子供っぽく振舞われるのもうなずけますが、こういう心細い御境涯におなりになられても相変らず世間を怖がってばかりいらっしゃいますのは、おかしなものでございますよ」
とお教えします。姫君はさすがに人の言うことには、強く反対なさらない御性質なので、
「「お答え申し上げないで、ただ黙って聞いていていいなら、格子など閉めてここでお伺いしましょう」
と仰せになります。
「縁側にお通しするなんてあまりに失礼でございましょう。源氏の君は無理強いな、軽はずみなお振舞などはなさらないでしょう。まさか」
など、うまい具合に言いくるめて、ひさい二間ふたま と母屋の境にあるふすま を、命婦が自分の手でしっかりと錠をおろしてから、お敷物を敷いて御座席を整えました。
姫君はたいそうきまりわるくお思いになられましたが、このような男君とお逢いする時の心得などは、少しもご存じないので、命婦がこう言って勧めるのは、それだけのわけがあるのだろうと思って、任せきっていらっしゃいます。乳母のような老女などは、早々と部屋に引き籠って横になり眠たがって宵寝をしている時刻です。若い女房が二、三人寝ないでいますのは、世にも名高い源氏の君の君のお姿を、一目見たいものだと思って、緊張しているのでした。
命婦は姫君を、見苦しくないお召物に着替えさせたり、お化粧や身づくろいをいsておあげになります。
ところが当の姫君ご本人は、一向に気の弾んだ様子もお見えになりません。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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