紫式部がなぜこんな大作を書き残すことが出来たのか。 それはひとえに彼女に天賦の文学的才能が恵まれていたからである。さらにその才能を研鑽する努力が払われ、それを可能にする境遇が具わっていたからであろう。 紫式部は、生年月日も、官命も定かではない。当時の女は皇后、皇女とか、最高級貴族の娘でもないかぎり、名前は残されていない。宮仕えすれば、父や夫や兄の官名にちなんで呼ばれた。清少納言や和泉式部いずみしきぶもその例である。 父は藤原為時ためとき
、母は藤原為信ためのぶ の娘で、生年は、色々の説があるが、天延元年
(973) 前後、大体九百七十年代に生まれ、長和三年 (1014) ごろ没したらしいよいうことである。 父の家系も母の家系も、もとは摂政太政大臣藤原良房の兄弟を先祖にしている名門ではあるが、式部の父母の代では、大方は受領ずりょう
階級で、一流の貴族からは落ちていた。ただし、両家系とも代々歌人として認められ、文科系の才能が伝わっていた。 式部の父為時は、歌より詩文が認められていた。花山天皇の代よ
には式部しきぶ の丞じょう
、式部の大丞を歴任している。式部の丞とは、式部省の役人で、公文書の審査が役目であった。娘が式部と呼ばれたのはこの時の父の官名にちなんだものだろう。 花山天皇が藤原氏の謀略によって、突然、出家退位した後、為時も官途につけず、十年ばかり不遇失意の時を過ごした。藤原道長が兄道隆一家を陥れ、執権の地位を手に入れた長徳元年の翌年、為時は大国越前の受領として返り咲いた。 この時、すでに二十数歳になっていた紫式部は父に従って越前まで行っている。 母は早く死んだらしい。姉と、兄惟規のぶのり
(弟ともいう) がいた。幼時から利発であったと見え、「紫式部日記」 には、惟規が父から漢文を習う横で、聞いていた式部の方が先に覚えてしまい、
「この子がおとこだったら」 と父を嘆息させたという自慢話を残している。 文人的気風の満ちた家風の、おびただしい蔵書のある生家で、式部は物心ついた時から文学に親しみ、十余才の頃には、父の蔵書に読みふけり、一ぱしの文学少女に育っていたのだろう。 この時代にしては、結婚も遅く、浮いた噂もなかったのは、式部が女として、それほど美しさにも魅力にも乏しく、小生意気だったことをうかがわせる。 越前に一年ほど滞在して、なぜか単身帰京した式部は、父ほどの年齢の藤原宣孝のぶたか
と結婚する。宣孝は、為時と同じ家系の流れではあるが、この一族は文学的というより実務的な才があり、それぞれ仕官して世渡りもうまかった。宣孝も、右衛門うえもん
の権佐ごんのすけ 、兼山城やましろ
の守かみ で、受領といっても羽振りがよかった。 |