〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/12/13 (日) 

若 紫 (二十五)

源氏の君のところからは、その夕方、惟光が使者として参りました。
わたしが参らねばなりませんのに、宮中からお召しがございまして、そちらへ伺えなくなりました。姫君のおいたわしい御様子を拝見いたしますにつけても、とても心配でなりませんので」
とことづけられ、惟光が宿直役もつとめるようさしむけられたのでした。
「ああ、ああ、情けないなさり方だこと、かりそめにもせよ、御縁組の出来た最初から、もう通って下さらないとは、父宮のお耳にこんなことが入ったら、当然、お側にお仕えするわたしたちの落ち度だとお叱りを受けるに決まっています。どんなことがあったも決して決して、何かのはじみみそろ、うっかり源氏の君のことは、お口になさいませんように」
などと女房が言っても、姫君はその意味が分からず、何ともお感じにならないのが、頼りないことでした。
乳母の少納言は、惟光にいろいろ悲しい話をして、
「これから先、歳月が経ちました後には、ご結婚なさる前世からの御縁が、どうしても逃れられないということも、ないとは限りません。ただ、今のところは、どうみたって、まるでお似合いではないお話と思われますのに、源氏の君が不思議なほどに熱心に色々とおっしゃって下さるのも、どういう御本心なのか見当もつきかねて、わたしは迷い悩んでおります。実は今日も父宮がいらっしゃいまして 『心配のないように姫君にお仕えせよ、無分別に不行き届きなお扱いをしてくれるな』 とおっしゃいましたのも、わたしとしてはとても厄介に思われて、ご注意を受けた時よりはなおのこと、源氏の君のこういう色ごとめいたお振舞が迷惑なことに思われるのでございます」
などと言って、
「この惟光も昨夜、源氏の君と姫君の間に何かわけがあったように思っているのではないか」
と、そう誤解されては面白くないので、あまりひどく嘆いているふうにも惟光には話さないのでした。惟光も、一体お二人の間はどういうことのなっているのかと、腑に落ちないのでした。
帰って来て、源氏の君に様子を御報告しますと、源氏の君は姫君を可哀そうにお思いになりますけれど、さて、昨夜のようにお通いになりますのも、さすがにはしたない感じがなさり、人が聞きつけたら、軽率な馬鹿げた振舞のようにとられるだろうと憚られますので、とにかく、思い切って御自分のお邸に姫君をお連れしてしまおうとお考えになります。
お手紙は幾度もおあげになります、日が暮れると例によって惟光をお使いにお遣りになります。
「差しつかえるところがあって、お伺い出来ないのを、いい加減な気持だったのだと思っておいででしょうか」
などと書いてあります。少納言は、
「兵部卿の宮から、明日、急にお迎えにいらっしゃると仰せがございましたので、気忙しくしております。長年住み馴れたこの草深い荒れた宿も、いよいよ離れて行くかと思いますと、さすがに心細く、お仕えしてきた女房たちもみな取り乱しておりまして」
と言葉少なに言い、ろくに相手もしてくれません。着物を縫ったりして移転の支度に忙しそうにしている様子がはっきりわかりますので、惟光は早々に帰って来ました。
源氏の君はその時、左大臣邸にいらっしゃいましたが、例のように、女君はすぐにもお逢いになりません。源氏の君は自然不愉快におなりになって、東琴をかき鳴らして、
<常陸ひたち にも、田をこそ作れ あだ心 や かぬとや君が 山を越え あま 夜来よき ませる>
という俗謡を、なまめかしいお声で口ずさんでいらっしゃいます。そこへ惟光が参りましたので、お側に呼び寄せて、姫君の様子をお聞きになりました。惟光がこれこれしかじかと御報告しましたので、口惜しく思われ、
「兵部卿の宮邸に姫君が行ってしまわれたら、そこからわざわざ連れ出すというのも、好色なことに見えよう。幼い人を盗み出したなどと世間からきっと非難されるに違いない。いっそ宮邸に移る前に、しばらく女房たちに口止めしておいて、二条の院にお連れしてしまおう」
とお考えになります。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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