〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/12/11 (金) 

若 紫 (二十一)

秋の夕暮れはただでさえ淋しいのに、まして源氏の君はお心の休まる閑もなく、恋い焦がれて悩み苦しんでいらっしゃる藤壺の宮のことばかり思いつめていらっしゃいます。一方では、藤壺の宮の血縁につながる幼い姫君を、無理にもお手に入れたいというお心もいっそうおつのりになるのでしょう。
あの尼君が、 「消えむ空なき」 と詠まれた北山の春の夕べのことなどが思い出されて、姫君が恋しくもあり、また一緒に暮せば、今より見劣りがしないだろうかと、さすがに不安にもなられます。
手に摘みて いつしかも見む 紫の 根にかよひける 野辺の若草
(早くこの手に摘み取って わがものとしたいものよ あの恋しい紫草の 根につながっている 野辺の若草を)
と、お詠みになります。
 

十月には、朱雀院すざくいん行幸ぎょうこう がある予定でした。
その日の御宴の舞人まいびと などには、高貴の家の子息たちや、上達部かんだちめ殿上人でんじょうびと などでも、その道のすぐれている人たちは、みなお選び出しになりましたので、親王みこ たちや大臣をはじめとして、誰も彼もそれぞれ技芸の練習をなさるのに、閑もない有り様でした。
源氏の君は北山に移られた尼君にも久しく御無沙汰していることを思い出されて、わざわざお手紙の使いをおやりになりましたら、ただ僧都からのお返事だけがありました。
「先月の二十日頃に、尼はとうとう空しく亡くなってしまいました。人の世の定めとは申せ、悲しく思っております」
など書かれているのを御覧になられて、世の中のはかなさもしみじみお感じになり、亡き尼君が、あんなにお心にかけておられた姫君はどうなさっていることか、聞き分けのない頑是なさだから、さぞ亡き人を恋い慕っていることだろうと、昔、御自身が亡き母君に先立たれたことなども、おぼろげながら思い出されて、手厚くお見舞いなさいました。
少納言からなかなか心得のある御返事が届きました。
忌中の慎みも過ぎた頃、姫君が京のお邸に帰られたとお聞きになられましたので、しばらくしてお暇な夜、源氏の君御自身で、お訪ねになりました。
たいそう寒々しく寂寞じゃくまく と荒れはてた邸に、住んでいる人もいたって少ないので、幼い姫君はどんなのか恐ろしいことだろうとお察しします。
例の南の廂の間にお通し申し上げて、乳母の少納言が、尼君御臨終の御様子などを、泣きながらお伝え申し上げるのでした。源氏の君もただもう、貰い泣きの涙で、お袖もすっかり濡れていらっしゃいます。
@姫君をご自分のお邸にお移ししようと、兵部卿の宮はおっしゃいましたが、姫君の亡くなられた母君が、宮の北の方のひどい意地悪なお仕打ちに、たいそう辛い情けない思いばかりなさいましたし、この姫君は全く稚いちうお年でもなく、そうかといって、まだしっかりと人の気持などを御推察出来るわけでもなく、まあ、中途半端なお年頃なので、あちらでは北の方の大勢のお子たちの中に入れば、侮られはしないだろうかと、お亡くなりになられた尼君も、かねがね御心配遊ばして、お嘆きになっていられました。それが杞憂ではなく、なるほどとうなずけるような事実が、その後沢山ございましたので、このようにかりそめにせよ、あなたさまからもったいないお言葉をいただきますと、先々のお心まではともかくとして、ただ有り難く存じられる場合でございます。ところが当の姫君は、いっこうにあなたさまにお似合いのようなところもなく、お年よりはずっと子供じみて他愛なくていらっしゃいますので、ほとほと気がひけまして困り果てております」
と申し上げます。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
Next