〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/12/11 (金) 

若 紫 (二十)

尼君は、
「わたしの具合の悪いのは、いつものことで当たり前になっております。けれども、もう今はいよいよ命も終わりの有り様になりまして、ほんとうに勿体もったい なくもこうしてお立ち寄り下さいましたのに、お目にかかってじきじきにお礼を申し上げることも出来ないのが残念でございます。幼い姫のことでいつも仰せ下さいますあのことは、この先々万が一にもお気持がお変わりにならないようでございましたら、こういう何のわけもわからない頑是ない年頃が過ぎ、大人らしくなりましたなら、是非ともお目をかけて下さいますように。あの幼い子を私が死んでひどく頼りない身の上に残しますことが心配で、願っております往生の障りにもなりそうに思われてなりません」
などと、女房を通して申し上げます。
病床がすぐ間近いため、心細そうな尼君のお声も、とぎれとぎれに聞こえて来ます。
「ほんとうに有り難いことでございます。せめて姫がお礼の一言も申し上げられる年頃になっておりましたらよろしいのですが」
とおしゃいます。
源氏の君は尼君のお言葉をしみじみ哀れにお聞きになられて、
「一通りの浅い考えでしたら、どうして、こんな好色者のような粋狂な振舞をお目にかけられましょう。どうした前世の因縁からか、はじめて姫君にお目にかかりました時から、不思議なほど心から可愛くてたまらなく思われたのも、とてもこの世だけの御縁ではなく、前世からの約束事と思われてなりません」
などとおっしゃって、
「このままではお伺いした甲斐もない気持がして残念すぎます。あの可愛らしいお方のお声をせめて一声でも、ぜひともお聞かせいただけましたら」
と仰せになりますと、女房は、
「さあ、そうおっしゃいましても、何しろ姫君はまだ何もお分かりにならない無邪気な御様子で、お寝みでございまして」
など申し上げておりますと、丁度その折も折、向こうから近づいて来る足音がして、
「おばあさま、あの北山のお寺にいらした源氏の君がお見えなのですって、どうして御覧にならないの」
と姫君が無邪気におっしゃるのを、女房たちがとてもばつの悪い恥ずかしい思いをして、
「しっ、お静かに」
と制しています。
「だって、源氏の君を御覧になったら、気分の悪いのが治ったって、おばあさまがおっしゃったからよ」
と、自分はとてもいいことを言っているのだと思い込んで、おっしゃるのでした。
源氏の君は、それをたいそうおもしろくお聞きになりましたけれど、女房たちがあまり困りきっているので、聞かないふりをなさって、鄭重なお見舞の言葉を申し上げておいて、お帰りになりました。
「なるほど姫君は、まったく頑是ないほんとうの子供だ。けれどそれだけに、好きなようによく教育してもたい」
とお考えになります。
明くる日も、源氏の君はたいそう細やかな行き届いたお手紙を、お贈りになります。例のように小さい結び文に、

いはけなき 田鶴たづ一声ひとこゑ 聞きしより 葦間あしま になづむ 舟ぞえならぬ
(雛鶴ひなづる の一声を聞いて その声に惹かされて はやくそちらに行きたいのに 葦間を分けて行き悩む この舟のじれったさよ)

「わたしはいつまで同じ人を恋いつづけることでしょうか」
と、ことさら子供っぽい字でお書きになっていらっしゃいます。これがまたお見事なのでした。
「このままお習字のお手本にいたしましょう」
と、女房たちは姫君に申し上げます。乳母の少納言からお返事をさし上げました。
「お見舞い下さいました尼君は今日一日も危ないような容態でして、これから山寺に引き移るところでござます。わざわざお見舞いにお立ち寄りいただきました御礼は、あの世からでも申し上げることになりましょう」
とあります。源氏の君はたいそう哀れにお感じになります。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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