僧都は奥へ入って、あの源氏の君のお言葉を、そのまま尼君にお伝えしましたけれど、尼君は、 「どうにも、只今は、お返事の申し上げようもございません。もし、そのようなお気持がおありなら、あと、四、五年も経ちましてからなら、何とかお返事の仕様も」 とおっしゃいますのを、そのまま僧都が源氏の君にお伝えしますと、前と同じ返事なので、残念に思われます。 姫君へのお手紙を、僧都に仕える小さな童に、ことづけられました。 |
夕まぐれ
ほのかに花の 色を見せて けさは霞の 立ちぞえあづらふ (昨日の夕まぐれ ほのかに花のような 美しい人を見たので 今朝は心残りで霞のように
山を立ち去りかねている) |
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それへの御返歌は尼君から、 |
まことにや
花のあたりは 立ち憂きと 霞むる空の けしきをも見む (花のあたりを 立ち去りぬくいとは ほんとうでしょうか 霞んだ空のような
あなたの本心を見ましょう) |
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と、風雅な御筆跡の実に品のある文字で、さらりと書いてありました。 源氏の君がお車にお乗りになるところへ、左大臣から、 「行く先もお知らせにならずお出かけなさいましたので、心配いたしました」 と、お迎えの家来たちや、御子息たちなどが大勢で参りました。頭
の中将ちゅうじょう や左中弁さちゅうべん、そのほかの御子息たちもお後を追って来られて、 「こんなお供なら喜んでさせていただきたいと思っておりますのに、誘っては下さらないでお出かけとはあんまりです」 と、恨みごとを申し上げて、 「このすばらしい花の蔭に、少しも足を止めずに引き返してしまうのは、残念なことです」 と申します。岩かげの苔の上に、みんなで居並んで座り、お盃を廻されました。流れ落ちてくる水の様子など赴きのある滝の下でした。 頭の中将が懐に持っていた横笛を取り出し、吹きすましました。弁の君が扇を軽く打ち鳴らして、 <豊浦とよら
の寺の 西なるや 榎え の葉ヰはゐ
に 白玉沈しづ くや 真白玉沈くや おおしとど おしとど> と、催馬楽さいばら
を謡うた われます。どなたも他の人々よりはすぐれた左大臣家の御子息たちでしたけれど、源氏の君がさもけだるそうに岩によりかかっていらっしゃるお姿は、何に比べようもなく不気味なほどにお美しくて、ほかの何にも目移りのしようがないのでした。 例のように、篳篥ひちりき
を吹く随身ずいじん 、笙しょう
の笛を従者に持たせている風流人などもいるのでした。 僧都は自分で琴きん
を持ち出して来て、 「どうぞこの琴を、ほんんお一曲だけでもお弾きいただいて、同じことなら山の鳥どもを驚かせてください」 と、熱心にお願いいたしますと、源氏の君は、 「気分がたいそう悪くて、その気になれないのだけれど」 とおっしゃりながらも、一応無愛想にならない程度に琴をかき鳴らしてから、みんなと御一緒に御出発なさいました。 お別れが辛くてお名残惜しいと、取るに足りない下級の僧や召し使の童たちまで、涙をこぼしています。まして、庵の中では、年老いた尼君たちなどが、いまだかつてこんなすばらしいお方のお姿を見たこともなかったので、源氏の君のお美しさを、 「この世のものとも思えません」 と話し合っています。僧都も、 ほんにまあ、どうした前世の因縁で、このようなすばらしいお姿で、こんなうっとおしい日本の末世にお生まれになられたのかと、お姿を仰げば悲しくてなりません」 と、涙の目をおしぬぐわれるのでした。 あの幼い姫君も、子供心にも、源氏の君を何て素晴らしいお方だだろうと思われて、 「お父様よりも、ずっとおきれいね」 などとおっしゃっています。女房が、 「それなら、あのお方のお子におなりなさいませ」 と申し上げますと、こっくりうなずいて、それはとてもすてきなことだと思っていらっしゃる御様子です。それからは人形遊びにもお絵描きにも、これは源氏の君よ、ときめられて、きれいな着物を着せ、大切にしていらっしゃいます。
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