〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/12/08 (火) 

若 紫 (十一)

明けはなれていく空は、たいそう霞が濃く、山の鳥たちもどこで鳴いているとも知れずさえず り交わしています。名も知らぬ木や草の花が、色とりどりに散りまじって、錦を敷いたように見える所に、鹿がたたず んだり、さまよい歩いたりしていますのも、源氏の君には珍しく、御覧になりますと御気分の悪いのもまぎれておしましになりました。
あの聖は動くことも難しい体なのですか、ようようにことで、源氏の君に被甲ひこう 護身法ごしんほう修法ずほう をしてさしあげます。しわがれた声が歯のすき間から洩れて、発音が奇妙に聞こえるのですが、それが、かえっていかにも功徳くどく ありげで、聖は陀羅尼だらに きょう をあげつづけるのでした。
源氏の君をお迎えに、京から来た人々が山に登って来て、御病気の御平癒をお喜び申し上げます。
帝よりもお見舞の使者がよこされました。僧都は、京では見られないような珍しい山の果物を、あれこれと、谷の底まで行って掘りおこし、おもてなしに奔走いたします。
「今年一杯山籠りするという深い誓いをたてておりますので、京までお見送りにも参れませんのが、今となってはかえって残念に思われることでございます」
などと申し上げて、お別れのお酒を源氏の君にさしあげます。
「山にも水にも、心が深くひかれましたが、帝に何かと御心配をおかけいたしますのも、畏れ多いことですから、一応下山いたしますが、そのうち、この桜の盛りが過ぎないうちに、きっとまた参りましょう」
宮人に 行きて語らむ 山桜 風よりさきに 来ても見るべく
(都に帰ったら 大宮人たちに聞かせよう この山桜の美しさを 花を散らす風より先に来て はやくこの花をみるようにと)
とおっしゃる源氏の君の御様子や、お声までが、まぶしいほどお美しいので、

優曇華うどんげ の 花待ち得たる 心地して 深山桜みやまざくらに 目こそ移らね
(源氏の君を拝するのは 三千年に一度咲くという 優曇華の花を待ちに待ち ようやく見たような嬉しさで 深山桜などには目も移らない)

と僧都が御返歌なさいますと、源氏の君はほほ笑まれて、
「その花は三千年にたった一度しか開かないというのでは、逢うのも容易なことではないですね」
とおっしゃいます。聖はお盃を頂戴して、

奥山の 松のとぼそを まれにあけて まだ見ぬ花の 顔を見るかな
(籠っている奥山の 松の戸を珍しくも開け まだみたこともない 花のような君のお顔を 拝むうれしさ)
と、泣きながらお顔を拝んでいます。聖はお守りとして、独鈷とつこ を献じました。
僧都はそれをご覧になられて、聖徳太子が百済くだら から手に入れられた、金剛子こんごうじ の数珠に玉の飾りのついたものを、百済から送られてきた時のままの、唐風の箱に収め、透かし織りの袋で包み、五葉の松の枝に結び付けてお贈り申し上げました。まら紺瑠璃こんるり の壺などに、お薬を入れて、それを藤や桜の枝に結び付けたものなど、いかにも山里にふさわしい贈り物を、さらにあれこれと添えて献上いたしました。
源氏の君も、聖をはじめ、読経を勤めた法師への布施をなさり、そのほかに用意の品々を、いろいろ京へ取りにやらせておかれたので、そのあたりの樵夫にまで、それぞれ相応の物を施され、御誦経みずきょう のために貴信なさってから、御出発なさいます。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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