〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/12/06 (日) 

若 紫 (九)

奥に居た女房は、思いがけないことと思ったようですけれど、聞こえぬふりも出来かねて、にじり出て来る人の気配がします。その女房は少し身を引いて後もどりしかけて、
「変ですわ、やっぱり空耳だったのかしら」
とさぐっているのをお聞きになり、
「み仏のお導きは、暗いところに入っても決して間違わないと、お経にもありますのに」
とおっしゃいます。その声がたいそう若々しく上品なので、女房はお答え申し上げる自分の声づかいも恥ずかしくなって、
「どちらの方へご案内すればよろしいものやら、わたしにはとんと分かりかねます」
申し上げます。源氏の君は、
「全く、突然のことであなたが何のことやらお判りにならないのももとtもですが、
初草の 若葉の上を 見つるより 旅寝の袖も 露ぞかわかぬ
(初草の若葉のような 可愛いあの人を見てからは 旅寝のわたしの衣の袖も 恋しさの涙に濡れて 乾く閑もない)

と、申し上げて下さいませんか」
とおっしゃいます。
「そんなお歌を頂戴いたしましても、御理解出来るようなお方は、ここにはいらっしゃらないのを、あなたさまもご存じの筈でございましょうに、いったいそのお手紙をどなたに」
と、申し上げます。源氏の君は、
「こうまでいうのは、当然、それだけのわけがあってのことと、お考えになって下さい」
とおっしゃいますので、女房は奥に入って、尼君に伝えました。尼君は、
「まあ、何て当世風ななされ方。この幼い姫を、恋の情の分かる年頃だとでも、お思いなのかしら。それにしても、わたしの詠んだあの若草の歌を、どうしてお耳になさったのだろう」
と、いろいろ不審なことばかりなので、気持が乱れて、御返歌が遅くなるのも、失礼だと恐縮します。

枕ゆふ 今宵こよひ ばかりの 露けさを 深山みやまこけ に くらべざらなむ
(旅の仮寝の一夜だけ 流す涙の露けさを いつも深山に濡れて泣く 乾かぬ苔の露けさに くらばてなぞはほしくない)
「わたしどもの袖の涙も乾き難うございますものを」
と、御返歌いたします。源氏の君は
「こうした人を介してのご挨拶など、わたしは一度もしたことがありません。はじめての経験です。恐縮でもこういう機会に直接お目にかかって、まじめにお話申し上げたいことがございます」
とおっしゃいます。尼君は、それを聞かれて、
「何かあの子のことでお聞き違えをなさっているのでしょう。こちらがきまりが悪いほど御立派なお方に、どうしてお返事が出来ましょう」
とおっしゃいます。女房たちは。
「それではあちらさまが失礼だとお思いになりましょう」
と申します。
「ほんに、そうかもしれません。若い者なら恥ずかしくていやかもしれないけれど、わたしのような年寄りに、本気でおっしゃって下さるのに、もったいないことです」
と言って源氏の君の方へにじり寄って来られるのでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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