〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/12/01 (火) 

夕 顔 (二十二)

夜道もたいそう遠くお感じになります。
十七日の月がさし昇った頃、賀茂のの河原のあたりにさしかかられましたが、お先払いの松明たいまつ の火もかすかになり、鳥辺野とりべの の方などを見渡された時などは、いつもなら何となく気味が悪いのに、今夜だけは怖いともお感じになりません。千々にかき乱された心のままお着きになりました。
このあたりは、もともと不気味なところの上、板葺きの家の傍らに堂を建てて、勤行している尼の住まいは、いっそうもの淋しいのでした。
お燈明の光が、戸の隙間からほのかに透けて見えます。家の中には女のひとり泣いている声ばかりが聞こえます。外には、法師たちが二、三人、時々話をしながら、わざと声を殺し、特に功徳があるという無言念仏を称えています。
近くの寺々の初夜そや の勤行もみな終ってしまって、あたりはたいそうひっそりと静かです。
清水寺きよみずでらの方角に、灯の光が多く見え、人も大勢いる様子でした。
この尼君の息子の僧が、尊い声で経を みあげているのをお聞きになると、源氏の君は涙も れはてるかと思われるほどお泣きになるのでした。
板葺きの家にお入りになりますと、燈火を壁に向けて亡骸なきがら からそむけて置いてあり、右近は亡骸と屏風一枚を隔ててうつ伏していました。どんあに辛いだろうと、源氏の君はそんな右近をご覧になるのでした。
亡骸は一向に恐ろしい感じもせず、ほんとうに可愛らしい様子で、まだ生前のお姿と全く変化が認められません。
源氏の君は亡骸の手をお取りになり、
「わたしにもう一度、せめて声だけでも聞かせておくれ。どういう前世の因縁だったのか、あんな短い間に、心の限りを尽くして愛し合ったのに、そんなわたしをうち捨てて ってしまい、こんな悲しい目に遭わせ、心を迷わさせるなんて、ひどい」
と、声も惜しまず、限りなくお泣きになるのでした。
僧侶たちも、源氏の君をどなたとはしらないまま、不思議に思って、その御悲嘆ぶりにつりこまれて皆涙をおとしています。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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