〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/11/30 (月) 

夕 顔 (十三)

沈むのをためらっている月に誘われたように、ふいにどこへとも行方も知らずさまよい出かけて行くのに、女は気が進まず迷っています。源氏の君がいろいろなだめてお誘いになるうちに、ふいに月が雲に隠れて、開けて行く空の景色がたいそう美しく見えます。
明るくなって人目につき、みっともないことにならないうちにと、例のように、急いでお出かけになりますが、軽々と女を抱き上げて、車に乗せておしまいになりましたので、右近も一緒に乗り込みます。
五条に近い、ある院にお着きになりました。
呼び出された留守番の者が出て来るまで、お車の中から、荒れはてた門の上に、しのぶ草が茂っているのを見上げていらっしゃいます。あたりは木が繁っていて、その蔭でたいそう暗いのでした。
霧も深く、湿っぽいのに、お車の簾まで上げさせていらっしゃいましたので、源氏の君のお袖までひどく濡れしおたれました。
「まだこんなことわたしには初めての経験だが、なかなか気苦労なものだね」

いにしへも かくやは人の まどひけむ 我がまだ知らぬ しののめの道
(昔の人も恋の闇路に迷い こんな暗い夜明けの道を さ迷い歩いたのだろうか 私には初めてのこんな 恋の道行きだけど)
「あなたはこんな経験がありますか」
とお訊きになります。夕顔の女は恥ずかしそうに、
山の の 心も知らで 行く月は うはの空にて かげや絶えなむ
(これから沈んでいこうとする 山の端の本心も知らないで そこへ近づいていく月は 消え果てしまうのかもしれません)
「心細うございます」
とつぶやいて、女はさも恐ろしそうに、脅えた様子をしていますので、あの狭い家に大勢で住み馴れていたからだろうと思って、源氏の君はおかしくなられます。
門の内にお車を入れさせて、西の対に御座所ござしょ の用意をしている間、高欄にお車のながえ をもたせかけて、お待ちになります。
右近はこんな成り行きに何となく艶っぽい情趣をそそられて、女君の過去の恋の場面などを、人知れず心の内に思い出しております。
留守番の男が緊張して一所懸命走り廻って支度をする様子を見て、右近は男君の御身分をすっかり見抜いてしまいました。
ほのぼのと夜が明けかけ、あたりの物の形が見えて来る頃、お車をお下りになり邸内にお入りになりました。
急ごしらえの御座所としてはきれいに支度してあります。
「お供にこれという人が誰もおつきしていないとは、いやはや、不都合なことでございますな」
と言う留守番は、源氏の君とも親しい下級の家司けいし で、左大臣邸にもお出入している男ですから、お前に参って、
「誰かしかるべき人をお呼びいたしましょうか」
など、右近を介して申し上げますけrど、源氏の君は、
「わざわざ、人の来ないような隠れ家をここと決めて来たのだ。決して、ほかへはこのことを洩らしてはならないぞ」
と、口止めをなさいます。
家司がおかゆ などをいそいで源氏の君に差し上げるのですが、お膳を運ぶ御給仕の者も揃いません。
まだ経験したことのない珍しい御旅寝なので、ひたすら愛し合い、とめどもなく溺れ、二人の仲が永遠に尽きることもないようにと、誓いつづけるより他のことはないのでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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