〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/11/29 (日) 

夕 顔 (十二)

「さあ、ここからすぐ近くの邸に行って、くるろいでゆっくり夜を明かそう。こんな所でばかり逢っていたのでは、たまったものではないよ」
と源氏の君がおっしゃいますと、女は、
「そんなことは、とても。だってあんまり急なことですもの」
と、おっとりと言いながら坐っています。源氏の君が、二人の仲はこの世ばかりでなく、来世までもつづけようとお誓いになりますと、女は疑いもせず身も心も任せきってくる心情など、不思議なほどほかの女たちとはちがって初々しく、とても恋に馴れた女とも思われません。源氏の君はそんな女がいっそういとしくなり、周りの思惑などどうでもよくなられます、右近という女房をお召しになって、随身にお命じになり、お車を縁側まで引き入れさせました。
この家の女房たちも、女君への源氏の君のご愛情が、おろそかでないのを、日頃からよく知っておりますので、何となく不安な気持を抱きながらも、御信頼しているのでした。
明け方も近くなりました。鶏の声などは聞こえないで、あれは金峯山きんぷせんに参籠に行く御嶽みたけ 精進そうじ の行者たちでしょうか、ひどく年寄りくさい声で祈りながら、地に額をこすりつけ礼拝するのが聞こえて来ます。五体投地礼の立ったり坐ったりの動作も、苦しそうに勤行ごんぎょう をしているのでした。
可哀そうに、朝の露と同じようなはかないこの世で、余命おくばくもない老人が、いったい何を貪り求めようとして祈っているのかと、源氏の君はその声をあわれにお聞きになるのdした。
南無なむ 当来とうらい 導師どうし
と拝んでいるようです。
「あれをお聞きなさい、あの老人も来世を信じて、この世だけの命とは思っていないのでしょうよ」
と、哀れにお思いになって、
優婆塞うばそく が 行ふ道を しるべにて  も深き 契りたがふな
(あの行者たちの勤行を 仏の道への案内として 来世までもあなたよ 深いふたりの愛の契りを たがえないでほしい)
玄宗皇帝げんそうこうてい楊貴妃ようきひ長生殿せいちょうでんで 愛を誓い合った昔の例は死別になって不吉なので、比翼ひよく の鳥になって二人で生まれ変わろうという約束とは引きかえに、弥勒みろく 菩薩ぼさつ の出現遊ばすという五十六億七千万の、今からはるかな遠い未来までもの、お約束をなさいます。そてはあまりにも大袈裟なお話でございます。
さき の世の 契り知らるる 身の憂さに 行く末かねて 頼みがたさよ
(わたしの前世のつたなさも 思いやられる身の不運 どれほどあなたを愛しても 行く末かけての契りなど 今から頼みにできようか)
こうした返歌はしましたものの、歌を詠むような嗜みなど、この女には果たしてどれほどあることやら頼りない感じがします。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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