「さあ、ここからすぐ近くの邸に行って、くるろいでゆっくり夜を明かそう。こんな所でばかり逢っていたのでは、たまったものではないよ」 と源氏の君がおっしゃいますと、女は、 「そんなことは、とても。だってあんまり急なことですもの」 と、おっとりと言いながら坐っています。源氏の君が、二人の仲はこの世ばかりでなく、来世までもつづけようとお誓いになりますと、女は疑いもせず身も心も任せきってくる心情など、不思議なほどほかの女たちとはちがって初々しく、とても恋に馴れた女とも思われません。源氏の君はそんな女がいっそういとしくなり、周りの思惑などどうでもよくなられます、右近という女房をお召しになって、随身にお命じになり、お車を縁側まで引き入れさせました。 この家の女房たちも、女君への源氏の君のご愛情が、おろそかでないのを、日頃からよく知っておりますので、何となく不安な気持を抱きながらも、御信頼しているのでした。 明け方も近くなりました。鶏の声などは聞こえないで、あれは金峯山に参籠に行く御嶽みたけ
精進そうじ の行者たちでしょうか、ひどく年寄りくさい声で祈りながら、地に額をこすりつけ礼拝するのが聞こえて来ます。五体投地礼の立ったり坐ったりの動作も、苦しそうに勤行ごんぎょう
をしているのでした。 可哀そうに、朝の露と同じようなはかないこの世で、余命おくばくもない老人が、いったい何を貪り求めようとして祈っているのかと、源氏の君はその声をあわれにお聞きになるのdした。 「南無なむ
当来とうらい 導師どうし
」 と拝んでいるようです。 「あれをお聞きなさい、あの老人も来世を信じて、この世だけの命とは思っていないのでしょうよ」 と、哀れにお思いになって、 |
優婆塞うばそく
が 行ふ道を しるべにて 来こ
む世よ も深き 契りたがふな (あの行者たちの勤行を
仏の道への案内として 来世までもあなたよ 深いふたりの愛の契りを たがえないでほしい) |
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玄宗皇帝げんそうこうてい
と楊貴妃ようきひ が長生殿せいちょうでんで
愛を誓い合った昔の例は死別になって不吉なので、比翼ひよく
の鳥になって二人で生まれ変わろうという約束とは引きかえに、弥勒みろく
菩薩ぼさつ の出現遊ばすという五十六億七千万の、今からはるかな遠い未来までもの、お約束をなさいます。そてはあまりにも大袈裟なお話でございます。 |
前さき
の世の 契り知らるる 身の憂さに 行く末かねて 頼みがたさよ (わたしの前世のつたなさも 思いやられる身の不運 どれほどあなたを愛しても
行く末かけての契りなど 今から頼みにできようか) |
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こうした返歌はしましたものの、歌を詠むような嗜みなど、この女には果たしてどれほどあることやら頼りない感じがします。 |