〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/11/28 (土) 

夕 顔 (七)

霧がたいそう深い朝のことでした。昨夜は久々に、源氏の君と六条の御息所はこまやかな愛の一夜をお共になさいました。御息所はしきりに早くお帰りになるよう源氏の君をおせかしになります。
昨夜のはげしい愛の疲れに、源氏の君は、まだ眠たそうなお顔のあま、溜め息をつきながらお部屋からお出ましになりました。
女房の中将ちゅうじょうきみ が、御格子みこうし を一間ひき上げて、御息所にお見送りなさいませというように、御几帳みきちょう をずらせました。女君は御帳台みちょうだい の中からまだ身も心も甘いけだるさにたゆたいながら、ようやく頭を持ち上げて、外をご覧になりました。
庭先の草花が色とりどりに咲き乱れているのにお目をとめられ、美しさに惹かれて、縁側にたたずんでいらっしゃる源氏の君のお姿は、この上もなくお美しく、惚れ惚れいたします。
お車に乗られるため廊の方へいらっしゃるのを、中将の君がお供いたします。紫苑色しおんいろの、季節にふさわしい小袿こうちき を着て、薄物うすもの をすっきりと引き結んだ中将の君の腰つきが、嫋嫋じょうじょう としなやかで、なまめいて見えます。源氏の君はふりかえられて、縁側のすみ高欄こうらん の所に中将の君を少しの間、手をそえてお坐らせになりました。嗜のある隙を見せないそぶりや、黒髪の美しく頬にかかった様子など、さすがに見事なものだと、すっかり感心なさいます。

咲く花に うつるてふ名は つつめども 折らで過ぎうき けさの朝顔
(美しく咲いている 朝顔の花のようなひと よ 浮き名の立つのは秘めたいけれど どうして摘まずにいられよう 今朝のいとしいこの朝顔を)
「ああ、どうしたらいいものか」
とおっしゃって、中将の君の手をおとりになりますと、女はあわてもせず、とっさに、
朝霧の 晴れ間も待たぬ けしきにて 花に心をとめぬぞと見る
(朝霧の晴れ間も待たず 早々とお帰りをいそぐあなた 朝顔の花のように美しいお方に お心をとめていらっしゃらないと お見受けしますけれど)
と、女房の立場から花を御息所にあてて、さりげなくお答えいたします。
可愛らしい召し使の少年が、洒落たみなりをして、ことさらに気どっているのが、指貫さしぬき の袴の裾を朝露に濡らしながら、草花の中にわけ入り朝顔を手折って来るところなど、絵の描いたような眺めでした。
これというかかわりもなく、ただちらりと源氏の君のお姿を拝した人でさえ、そのすばらしさに心を捕えられ、夢中にならない者はおりません。
ものの情趣もわきまwない山住みも賎しい田舎者でさえ、美しい花の下蔭には、やはり休みたくなりものなのでしょうか、源氏の君の光り輝くようなお姿をお見かけしているような人々は、それぞれの身分に応じて、自分のいとしく思っている娘を源氏の君の御奉公にさし出したいと願い、または人に自慢したいような美しい妹などを持っている人は、身分の低い召し使の立場でも結構だから、やはり源氏の君のお邸に御奉公させたいと、願わない者はなかったのでした。
まして、六条の御息所邸の中将の君のように、何かの折々に、源氏の君からちょっとお言葉をかけていただいたり、慕わしいお姿を近々に拝しているような女房たちの中で、少しものをわきまえた者は、どうして源氏の君のことに、心をこまかくお配りしないでおられましょう。
それだからこそ、源氏の君が朝も夜も、いつもこのお邸にお留まりになって、打ちくつろいで下さればどんなにか嬉しいのにと、心もとなくもどかしく思っているようでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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