〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/11/27 (金) 

夕 顔 (三)

尼君の病気平癒へいゆ加持祈祷かじきとうなどを、ほかにもまた始めるようにとお命じになられてから、源氏の君はこの家をお出になろうとして、惟光に紙燭あかり を用意させたついでに、さっきの扇をご覧になりました。この扇を使い馴らした人の移り香が、たいそう深くしみついていて、心惹かれます。扇には風流な筆蹟で歌が書き流してありました。

心あてに それかとぞ見る 白露の ひかりそへたる 夕顔の花
(あるいはあのお方 源氏の君ではないかしら 白露に濡れ濡れて ひとしお美しく光をました 夕顔の花のようなお顔は)

それとなくほのかに変えてある筆蹟も、上品らしくわけありそうに見えます。
源氏の君は想いのほかにお気持をそそられ、
「この西隣の家には誰が住んでいるのか、聞いたことはないか」
と惟光におっしゃいますので、また例の厄介なお癖が、とは思うけれども、惟光はそうとはいわず、
「この五、六日、この家にはおりますが、病人のことが心配で看護にかまけきっていまして、隣のことなど聞く暇もありません」
と、ぞんざいな口調で申し上げます。
「こんなことw訊くのを憎らしいと思っているのだね。っしかし、この扇は調べてみなければならないわけがありそうに思われるから、やはりこのあたりの様子のわかった者を呼んで調べておくれ」
とおっしゃるので、惟光は奥に入り、この家の管理人を呼んで尋ねました。男は、
「隣は揚名ようめいすけ をしている者の家でございました。主人は田舎へ出かけていって、その妻というのが年も若く風流好みの女で、その姉妹とかが宮仕えをしていて、よくこちらに出入していると、隣の下男が申します。詳しいことは、下男などにはよくわからないようでございます」
と申し上げます。
なるほど、それではあの歌は、宮仕えの女のしわざであろう。
得意そうにさも馴れ馴れしく詠んだものだ、どうせ興ざめな身分の低い者だろう、とはお思いになるものの、それでも源氏と目ざして、歌を詠みかけてきた心意気が、どうも捨て難くて、憎からずお思いになりますのも、例の、女にかけてはほんとうに軽々しいお心のせいなのでしょう。
懐紙かいし に、つとめて御自分の字ではないように、筆跡を変えてお書きになられて、

寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 花の夕顔
(近づいてたしかに 見さだめてはいかが たそがれの薄明りに ほのかに見た夕顔の 花の正体をわたしを)

と、いう歌を、さっきの随身に持たせておやりになりました
女たちはまだこれまで拝したことも無い源氏の君のお姿でしたけれど、たしかにあのお方に間違いないと、御推量した君の横顔を見逃すことが出来ずに、いきなり、歌をさし上げたりしたものの、源氏の君からは、何のお答えもないまま時が過ぎていったので、何だか体裁が悪く、気恥ずかしい思いをいていたところでした。そこへ、こうしてわざわざお返事がありましたので、いい気になって、
「さあ、どうお返事したものかしら」
などと、相談しあっている様子でしたが、随身は興ざめな女どもだと癪に障り、さっさと帰ってきてしまいました。
先払いの者のともす松明の光もほのかに、源氏の君は、乳母の家を忍びやかに御退出なさいました。
西隣の家の半蔀はもうすっかり下されています。半蔀の隙間から漏れてくる灯が、螢よりもなおもほのかに見えるのが、しみじみとした気持をそそるのでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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