〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/11/26 (木) 

空 蝉 (五)

女は、源氏の君があれ以来、すっかり自分のことをお忘れになられたようなのを、内心よかったと、つとめて思おうとしているのですが、なぜかあの妖しい夢を見ていたような一夜のことが、今も心から片時も離れることがなくなつかしくて、眠られぬ夜がつづいていたのでした。昼は物思いにぼんやりと沈みこみ、夜は夜で安らかに眠ることもできません。
<夜は覚め 昼はながめに 暮されて 春はこのめぞ いとなかりける> ト古歌にあるように、今は春でもない夏だというのに、 「木の芽」 ならぬ 「この目」 も休まる時もないと、いっそう物思いに沈みこみ、嘆いているのでした。
碁を打っていた継娘は、
「今夜はこちらでやす ませていただくわ」
と、今時のむすめらしくこだわらず、陽気に話しかけながら、継母のかたわらに寝てしまいました。
若い娘は無邪気で、たちまち、ぐっすりと寝入ってしなったようです。
そこへ人の忍び入ってくる気配がして、かぐわ しい香の匂いが息苦しいほど漂ってきました。おぼえのあるその薫りに、女ははっと顔をあげました。単衣ひとえ帷子かたびら が引きあげられている几帳の隙間に、暗いけれど誰かがそろそろと、身じろぎしながらにじり寄って来る気配がありありとわかります。
呆れ果てて、とっさの分別もつかないまま、女はそっと身を起こすと、薄い生絹すずし の単衣一枚をはおって、寝間からすべり出てしまいました。
源氏の君はお入りになると、女が唯一人寝ているので、ほっとなさいました。長押なげし の下の間に女房が二人ほど寝ています。女の体にかけていた夜着をそっと押しのけられて、女の側にぴったりと寄り添って横になられます。そうっと女の体をおさぐりになりますと、この間の夜より何となく手触りに豊満な感じが伝わります。それでも別人とはお気づきにならないのでした。そのうち、いぎたなく寝こけてなかなか音を覚まさない女の様子などが、どうもあの女とは、妙に様子が違っていることにお気づきになりました。ようやく、さては別人だったのかとおさとりになられると、あまりのことに情けなくいまいましくてなりません。
「それにしても人違いだったと、あわてふためいたところを見せるのも、ずいぶん間の抜けたことだし、何よりもこの娘だって変に思うだろう。今更あの女を探してみたところで、これほど自分から逃げようとしているのだから、所詮、無駄骨だろう、女にもいっそう愚かな男だと嘲笑されるのがおちだ」
と思いめぐらされます。
「この娘が、あの灯影ほかげ で見た可愛かった女なら、ままよ、それもよかろう」
とお思いになってしまうのも、感心できないいつもの浮気なお心のせいでございましょう。
娘はようよう目をさましますと、思いもかけないことになっているので、すっかり驚き茫然としている様子ですが、こうした場合の、何の心構えも嗜みもなくて、可哀そうなことをしたと憐れみをおこさせるようなしおらしさも、見せないのでした。
処女であったわりには、初々しさに欠け、物馴れた様子で、こんな場合に、消え入りそうにうろたえるという風情もありません。
源氏の君は、女に身分を知られたくないとお思いになりましたが、どうしてこんなことが起こったのかと、後でこの娘が色々思いをめぐらす時、自分としては別に差し支えのないものの、あのつれない人が、世間体を無性に気にしていただけに、どんなに苦しむだろうと、さすがに不憫に思われて、
「これまで、時々、方違かたたが えにかこつけてこの邸を訪れたのも、実はあなたが目当てだったのですよ」
など、上手にとりつくろって娘にお話になります。よく気のつく女なら、源氏の君のお目当ては継母だったのだと、察しのつきそうなものなのに、小生意気なようでも、まだ年若い娘の思慮では、そこまでは思いつかないのでした。
この若い娘が可愛くないというわけでもないのですが、格別お心を惹かれるようなところもなく、やはりあのいまいましい女の薄情を、つくづくあんまりだとお恨みになります。
「いったいあの女は、どこに隠れひそんで、自分のことを間抜けな男だとさげすんでいるのだろうか、なんなにしぶとい我の強い女がまたとあろうか」
とお思いになりましても、あいにくかえって忘れられず、あの女のことばかりがせつなく思い出されるのでした。

源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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