〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/11/25 (水) 

帚 木 (二十四)

明くる日、小君は源氏の君に呼ばれましたので、今からお邸へ参上するからと言って、姉君にお返事の催促をします。女は、
「こんなお手紙を見る人はおりませんと申し上げなさい」
と言いいますと、小君はにっこりして、
「だって、人違いなどなさるわけはないように、はっきりおっしゃったのに、そんなお返事は申し上げられませんよ」
と言いますので、それではこの子に、すっかりあのことを話しておしまいになったのかと思うと、何とも情けない気がして辛く、身の置き所もありません。
「何ですか、そんなませた生意気な口をきくものではありません。そんなふうなら、もう、あちらに参上するのはお止めなさい」
と、ひどく機嫌を損ねられて、小君は、
「だってお呼びがあったのですもの。どうして、行かないなんて出来るものですか」
と言って、源氏の君のところに参上しました。
紀伊の守は好色な男なので、この継母の暮らしぶりをもったいないと思って、常々、何かと機嫌をとっていましたので、この子君も大事にして、どこへでも連れ歩いていました。
源氏の君は小君をお呼び寄せられて、
「昨日は一日待ち暮したのに、そちらはわたしほどにはわたしのことを思ってくれないのですね」
とお怨みになりますと、小君は顔をあかくしています。
「どうだった、お返事は」
とおっしゃるので、姉に言われたとおり申し上げると、
「何だ、頼み甲斐もない。ひどい話だ」
とおっしゃって、また次のお手紙をお渡しになりました。
「お前は知らないだろうね。実は伊予の老人より先に、わたしと姉君は仲良くしていたのだよ。それなのに、わたしが頼りない若造だと見くびって、姉君はあんなみっともない老人を頼りにして、こんなふうにわたしを馬鹿になさるのだ。だけどお前だけはわたしの子のつもりでいておくれ、あの老人も、この先そう長いことはないだろうからね」
とおっしゃいますと、そういうこともあったのかも知れない、ほんとに困ったことだったんだなあと、小君が本気に思っている様子を、源氏の君はおかしくお思いになります。
それからはいつもこの子をお側にひきつけ、吾子あこ と呼ばれて可愛がり、宮中へも連れて参内されるのでした。御自分のお邸の御匣殿みくしげどのにお命じになって、小君の衣裳なども新調させ、実の親のようにお世話なさいます。
女へのお手紙も終始お持たせになります。けれども女は、この子もまだ幼稚なところがあるので、ひょっとして落したりして、うかつに手紙が人目に触れでもしたら、悲しい身の上に加えて軽々しい浮き名まで流すことになるだろう。自分の境涯が源氏の君に対してあまりにも分不相応だと思うため、どんな結構なお話でも、こちらの身分につけてこそと考え、うち解けたお返事などはさしあげません。
ほのかに拝したあの夜の源氏の君の面影や御様子は、ほんとうに噂に違わず、たぐい稀なすばらしさだったと、おなつかしくお偲びしないわけではありませんけれど、今更恋心の綾も理解する女のように振舞ってみたところで何になるだろうか、などと思い返すのでした。
源氏の君は片時も女をお忘れになることはなく、悩ましくも恋しくも思いつづけていらっしゃいます。おの夜の思い悩んでいた女の風情や、いじらしい面かげも頭から離れたことがなく、常にお心にかけつづけていらっしゃいます。
人の出入にまぎれて、軽々しくこっそりと忍んでいらっしゃっても、人目の多い所だから、不謹慎な挙動を見つけられでもしようものなら、あの人のためにも気の毒なことになろうと、思案に暮れては思い煩っていらっしゃるのでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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