〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/11/24 (火) 

帚 木 (二十二)

暁の鶏が鳴きました。お供の人々が起き出して、
「ああ、ひどく寝すごしてしなった」
「さあ御車を引き出せ」
などと言う声が聞こえます。紀伊の守も出て来て、
「女君などの御方違おんかたたがえならいざ知らず、こんな暗いうちから急いでお帰りになることもないでしょう」
などと言っています。
源氏の君は、こんな機会がまたありそうだとはとうてい思えず、wざわざ逢いにいらっしゃられるわけでもなく、お手紙のやりとりさえとても無理だろうとお思いになるにつけ、お心が痛んでなりません。
奥から中将の君も迎えに来て、ひどく困っていますので、いったんは女を放しておやりになるながら、また引きとどめられて、
「この後、どうやって手紙をあげたらいいのだろう。世にも稀なあなたの冷たい仕打ちのつらさも、わたしの恋の深いせつなさも、ふたつながら浅からぬ恋の一夜の思い出になりました。いったいこんな珍しいせつない話がまたとあるでしょうか」
と、お泣きになるお姿は、言いようもなくなまめかしいのでした。
鶏もしきりに鳴きますので、お心せかされて、

つれなきを 恨みもがてぬ しののめに とりあへぬまで 驚かすらむ
(世にもつれなくあしらわれ 恨みにたけも言えぬ間に はやもう東の空は白み 暁の鶏はしきりに鳴きたて どうしてわたしを起すのだろう)
とお詠みになります。女は自分の境遇や、器量や、年齢を考えますと、あまりにも不似合いで恥ずかしくて、身に余るほどの有り難い御執心や、こまやかな一夜の愛撫にも心が動かず、かえっていつもは無骨で嫌だと蔑んでいた伊予の老夫ことばかりが思いやられるのでした。もしかしたら、昨夜の事を、夫が夢にでも見はしなかったかと思い、そら恐ろしく身がすくむのでした。
身の憂さを なげくにあかで あくる夜は とり重ねてぞ 音も泣かれける
(情けないわが身に悩み 泣き嘆き流す涙に 寝もやらず明けた朝 鳴く鶏の声に重ね わが泣き声のまた高く)
見る見る明るくなっていくので、襖口まで送っておいでになりました。家の内も外も人々がざわめいてきましたので、仕方なく二人の間に襖を閉めて、お別れになる時は、淋しく心細くて、襖一枚あg、仲を隔てる関所の扉のように思われます。
女の去った後では、御直衣のうし などをお召しになって、南の高欄からしばらく茫然と、あたりを眺めていらっしゃいます。
西側の格子を音を立てて上げ、女房たちがこちらを覗いているようです。縁の中ほどに立てた低い衝立の上の方から、ほのかに見えていらっしゃる源氏の君の姿を、身にしむばかりにお美しいと、お慕いしている浮気な女房たちもいるようです。
月は有明けで、輝く光はすでに薄れていながら、月影はまだ鮮やかに残っているのが、かえって風情の深い曙の景色でした。
無心な空の景色も、眺める人の気持のせいで、なまめかしくも、淋しくも見えるのです。
人知れぬ源氏の君のお心のうちに映える風景はどんなだったでしょう。悲しく、せつない思いを胸に抱きしめ、女に手紙をやる手がかりさえないのにと、あの家の方を振り返り振り返りお帰りになられました。
お邸に帰りつかれてからも、すぐにはお寝になれません。ふたたびの逢瀬の手だてもみつからず、
「あの人こそ今頃はどんなに悩み沈んでいるだろう」
と、女の心の内を切なく思いやっていらっしゃいます。とりわけいい器量というわけでもなかったけれど、すべてにつけて、見苦しくないたしなみが身にそなわっていた様子は、あれこそ中流の上の女というのだろうか。経験豊富な左馬の頭が、中の上の女に掘り出し物があると言ったのは、たしかに当っていたと、なっとくされるのでした。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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