命婦が、母君からの贈り物をお目にかけました。
帝は、これが亡き楊貴妃のあの世の
棲家
を探し当てた
幻術士
げんじゅつし
に、楊貴妃が托して玄宗皇帝に贈った形見の釵であったならば、などとお思いになるのも詮ないことでした。 |
尋ねゆく 幻もがな つてにても
魂
たま
のありかを そこと知るべし
(あの世まで楊貴妃を捜し求めたかの幻術士よ わたしの前にもあらわれてほしい あの人の
魂魄
こんぱく
の行方を探し その
在処
ありか
を知らせてほしい) |
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絵に描いた楊貴妃の容姿は、いくら腕のすぐれた絵師といっても、筆の力には限りがありますから、何としても生身の色香は写しきれません。
太液
たいえき
の池の
芙蓉
はちす
や
未央宮
びおうきゅう
の柳に、ほんとうによく似ていたと、長恨歌に歌われた楊貴妃の容姿は、唐風の装いを凝らして、さぞ端麗だったでしょうけれども、更衣のやさいく、可憐だった生前の面影を思い出されますと、それは花の色にも鳥の声にも、たとえようもないものでした。
朝夕のお二人の愛の誓いには、
「天にあっては
比翼
ひよく
の鳥、地にあっては
連理
れんり
の
枝
えだ
となろう」
と、長恨歌の詩句を固くお約束なさったものなのに、それも果たせなかったはかない更衣の薄命さこそ、限りなく恨めしく思われてなりません。
風の声、虫の
音
ね
につけても、帝にはこの世のすべてのものが悲しく思われますのに、弘徽殿の女御は、帝のお召しのないまま、久しく清涼殿の
御局
おつぼね
にもお上がりにならず、その夜の月の美しさを観賞なさって、夜おそくまで管絃のお遊びに興じていらっしゃいます。
帝は、伝わってくるその賑やかな楽の音をお耳にされ、
「何という気性の烈しい人だろう、不愉快な」
と苦々しくお思いになります。
この頃の帝の御様子を拝察している殿上人や女房たちも、はらはらして聞いていました。もともとこの女御は、ひどく我の強い、とげとげしい御気性なので、帝の御傷心など無視しきってそんな振舞をなさるのでしょう。
やがて月も隠れてしまいました。 |
雲の上へも 涙にくるる 秋の月 いかですむらむ 浅茅生の宿
(雲の上と呼ばれるこの宮中でさえ
わたしの涙でかき暗れている月よ ましてあの草深い宿では どうして澄むことがあろう) |
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と、母君の家を思いやりながら、長恨歌の玄宗皇帝が
<秋の
燈
ともしび
挑
かか
げ尽くして
未
いま
だ眠ることは
能
あた
はず> と歌われているように、
燈心
とうしん
をすっかりかき上げてしまって燃え尽きる夜更けまで、起きておいでになります。
右近
うこん
衛府
えふ
の士官が
宿直
とのい
の名乗りをする声が聞こえてくるのは、もう真夜中の一時頃になったのでしょう。
人目をはばかられて、御寝所にお入りになっても、うとうとすることもお出来になりません。
朝お目覚めになりましても、更衣の御生前は、おふたりで夜の明けたのも知らず共寝して、
朝政
あさまつりごと
を怠っていたことを恋しくお思い出しになられます。それにつけても、更衣と愛しあった昔の日々がなつかしくてならず、やはり今もついつい朝政は怠りがちになられるようでした。
お食事も召し上がらず、略式の朝食に、ほんの形ばかり箸をおつけになるだけで、清涼殿で召し上がる正式のお膳部などは、まったく見向きもなさらず手もお触れにならない御様子なので、
陪膳
はいぜん
に伺候するすべての者たちは、帝の深い御傷心の有り様をおいたわしいと嘆きあうのでした。帝のお側近くお仕えする人々はみな、男も女も、
「ほんとうに困ったことですね」
と、云いあっては歎いています。
「こうなる前世の約束がきっとおありだったのでしょうね。帝は、更衣のことで、多くの人々から恨まれたり、そしられたりなさっても一向におきにお気にかけず、このことに関してだけはものの道理も失われ、更衣の亡くなられた今はまたこんなふうに、世の中のことをなにもかも思い捨てられたよになっているのは、またく困ったことです」
などと、よその国の朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそと歎きあうのでした。 |