〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part W-W』 〜 〜
==源 氏 物 語 (巻一) ==
(著:瀬戸内 寂聴)
 

2015/11/15 (日) 

桐 壺 (四)  

この若宮が三つになられた年、 御袴着 おんはかまぎ の式がありました。先に行われた一の宮の式に劣らないよう、 内蔵寮 くらづかさ 納殿 おさめどの のすばらしい品々を、帝は惜しみなくお使いになり、それは立派になさいました。
それにつけても世間では、とかくの批判ばかりが多いのに、若宮が成長なさるつれ、お顔やお姿、御性質などが、この上なくすぐれていらっしゃるので、さすがのお妃たちも、この若宮を憎みきることができません。
ましてまのの情理をきわめた人々は、これほど世にも稀なすぐれたお方さえこの世に現れることもあるのかと、茫然として目を見張っています。
その年の夏、更衣ははっきりしない気鬱の病気になり、お里へ下がって養生なさりたいと願いましたが、帝は全くお暇を下さいません。
ここ何年か、更衣はとかくの病気がちでしたので、帝はそれに馴れきっておしまいになり、
「もうしばらく、このままで様子を見よう」
とおっしゃるばかりでした。
そのうち病状は日ましに重くなってゆき、ほんの数日の間に、めっきり衰弱なさり重態になりました。更衣の母君は泣く泣く帝にお願いして、ようやくお里へ下がるお許しをいただきました。
こういう場合にも、もしも退出の行列に何かひどい仕打ちをしかけられ、恥をかかされるようなことがあってはと取り越し苦労をして、若宮は宮中に残されたまま、更衣だけがひそかに退出なさいます。
引き留めたくても宮中の作法によって限度があります。帝もこれ以上はどうにも止めようがなく、帝というお立場から、見送りさえ思うにまかせない心もとさを、言いようもなく辛くお感じになるのでした。
もともと更衣は、たいそうつややかで美しく、可憐なお方だったのに、今はすっかり面やつれなさっています。心には帝とのお別れをたまらなく悲しみながら、それを言葉に出すこともできず、今にも消え入りそうになっています。それを御覧になると、帝は過去も未来もお考えになれず、ただもう、あれこれと泣く泣くお約束なさるのですが、更衣はもうお返事さえ出来ません。眼つきなどもすっかり弱々しく、いかにもはかなさそうで、意識があるものとも見えません。いつもよりいっそうなよなよと横たわっていらっしゃるばかりでした。帝は御心痛のあまり気もそぞろで、なすすべもなく茫然としていらっしゃいます。
更衣のために、特別に 輦車 てぐるま を御許しになる 宣旨 せんじ をお出しになられてからも、また更衣のお部屋に引きかえされて、やはりどうしても更衣を手放すことがおできになりません。
「死出の旅路にも、必ずふたりで一緒にと、あれほど固い約束をしたのに、まさかわたしひちろをうち捨てては、去って行かれないでしょう」
と、泣きすがり仰せになる帝のお心が、更衣もこの上なくおいたわしく切なくて、

限りとて 別るる道の 哀しきに  いかまほしきは 命なりけり
(今はもうこの世の限り あなたと別れひとり往く死出の旅路の淋しさに もっと永らえ命の限り生きていたいと思うのに)
「こうなることと、前々からわかっておりましたなら」
息も絶え絶えにやっとおう口にした後、まだ何か言いたそうな様子でしたが、あまりの苦しさに力も萎え果てたと見え言葉がつづきません。
帝は分別も失われ、いっそこのままここに引き留め、後はどうなろうと、最期までしっかり見とどけてやりたいとお思いになるのでした。ところが傍から、
「実は今日から始めることになっていた 御祈祷 ごきとう の支度を整えまして、霊験あらたかな僧たちが、もうすでに里の方で待っております。御祈祷は今夜からでして」
と、申し上げ、しきりにせかせますので、帝はたまらないお気持のまま、今はどうしようもなく退出をお許しになりました。
源氏物語 (巻一) 著:瀬戸内 寂聴 ヨリ
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